2014年10月1日水曜日

コミック列車の似合う町

まずはクイズから

問1)アンパンマン、ゲゲゲの鬼太郎、忍者ハットリくん、ドラえもん、サイボーグ009に共通することを答えよ。

 漫画の主人公の描かれたラッピング列車が全国各地で活躍している。ということで答えは漫画列車である。町興しの一環であったり、ローカル鉄道の活性化のためであったりと目的は様々だが、いずれも著名な漫画家に縁とゆかりのある土地で乗ることができる。それほど漫画に親しんでいない私には、乗り尽くしの旅の途中の予期せぬ出会いであったが、郷土の誉れを背負って走る列車には大変親しみを感じることができた。
 今回はそんな漫画列車が登場する話である。それでは次の問題だ。こちらは少し難しいかもしれない。

問2)それぞれどの路線で走っているか。線名を答えよ。

 解答はこのブログのどこかに示すことにして、話を先に進めよう。

散居村を行く城端線

 珍しく「大人の休日倶楽部」会員限定パス(東日本・北陸)利用期間中に休みが取れた。旅行客閑散期に設定されている超割引パスなのだが、気軽に有給休暇がとれない我が身にとっては、いつも悔しい思いをしていた。降って湧いたようなこのチャンス、「今ここで行くしかない」と思いつつ、「はて、どこへ行こうか」ということで、来年3月に北陸新幹線が金沢まで開業すれば激変するであろう富山を訪ねることにした。
 新幹線の開業によってまた並行在来線がJRから切り離される。今回は北陸本線の直江津・金沢間が第3セクター化され、県が有力出資者のために新潟・富山・石川に3つの鉄道会社が誕生する。JR限定の青春18切符は使えなくなり、この割引パスだってどうなるかわからない。今回は超割引パスが使える最後のチャンスかもしれないのだ。
 休日初日の朝、上越新幹線で越後湯沢に行き、ほくほく線経由のはくたか2号で高岡に着いたのは10時27分であった。東京からは3時間半の旅だ。随分と近くなったものだが、鉄道が飛行機と戦えるギリギリのラインであることに変わりはなく、JRが北陸新幹線開業を急ぐ理由もわからなくはない。開業後は1時間短縮されることになり、航空機から鉄道に人が戻ってくると考えられている。しかし一方で味わいのある在来線がまた一つ無くなってしまう。車窓ファンにとってはとても残念でならない。
 高岡は鉄道の要衝であり、北陸本線の支線、城端線と氷見線への乗り換え駅となっている。この2本のローカル線は、新幹線とは直角に交わっているので、本線がなくなった後もJR西日本にとどまることになっている。こうして本線がなくなり、ポツンと取り残される在来のローカル線がところどころに生まれている。青森の大湊線と八戸線、岩手の花輪線、長野の小海線。今まではJR東日本にだけ見られた飛び地のようなローカル線が、今後増えていくことだろう。
 さて、今日最初に乗るのは城端線である。ホームの外れに車庫があり、たくさんのカラフルな気動車が停まっている。そのうちホームにやって来たのは青地に漫画が描かれたキハ40で、正面の貫通ドアに描かれていたのは忍者ハットリくんだった。高岡は藤子不二雄ゆかりの土地である。
 城端線は高岡から城端まで、全長29.9kmの単線非電化のローカル線だ。沿線に砺波市があり、チューリップ畑が有名である。列車は高岡を出発するとすぐに北陸本線から離れて、民家の軒先を進んでいく。その先、列車は神社の境内の脇を通り、明らかに家庭菜園と思われる猫の額のような畑と民家の前を通り過ぎる。この風景との距離感がローカル線の楽しみの一つだ。しばらく行くと新幹線新高岡駅の建設現場を通過する。現在城端線の新駅も建設中だ。
 この地方の屋根瓦は黒光りしていて、釉薬をかけてから焼かれたものが多い。また落雪を防ぐために瓦に取り付けられた雪止めは、東京なら一段のところ、三段になっている。雪国だから当然だろうが、かと言って越後のように床が嵩上げされているわけではない。
 更にこの地方の景観として特徴的なのは、農家が集落を作らず、一軒一軒散らばった散居村になっていることだ。各家は日除け風除けの高い木立に囲まれている。隣家との間は田圃が隔てており、家屋敷は比較的大きく、豊かな土地であることを窺わせる。車窓を木立に囲まれた農家が次々に通り過ぎていく。なんでも日本最大の散居村であり、砺波平野全体では7,000戸にものぼるのだそうだ。今では廃線となってしまった出雲地方の大社線でもかつて同じ風景を見ることができた。
 途中駅で上り列車と交換する。向こうも忍者ハットリくんだが、絵柄が少し異なっていて、更に城端ラインとかかれたラッピング車両が連結されている。
 油田という珍しい名前の駅に着いた。「あぶらでん」と読む。はたしてこんなところから石油が出るのだろうか。かつて秋田や新潟に油田があったと聞いたことはあるが。
 沿線最大の駅は砺波である。日本各地で見る運送用トラック「TONAMI」がここにも停まっていた。たしか本社はこの地方だったはずだ。
 列車は約1時間ほどで終点城端に到着する。城端は風情のある終着駅だった。乗客はさほど多くはなく、しかも簡易委託駅なので駅員がいて、写真を撮ろうとする私をじっと待っている。プレッシャーを感じ、そそくさと改札を済ませて、駅前広場に出ると、数名の乗客は全員同じバスに乗るようである。すぐにバスはやってきた。「城端~白川郷シャトルバス」「世界遺産バス」とかかれている。迂闊なことにここが白川郷の最寄駅であることを忘れていた。古い木造の駅舎は中部の駅百選に選ばれている。
 世界遺産を前にしながら、そのまま高岡に引き返す者などいる筈もない。相変わらずアホなことをやっているなあと思いつつ、終着駅らしさを求めて駅の周囲を散策する。駅の外れまで来ると、車止めの先に今降りたばかりのキハ40がポツンと停まっている。こののんびりとした雰囲気がたまらない。城端線を制覇した記念に祝杯でも挙げたい気分だが、あいにく駅には売店もコンビニもない。付近には店もまばらで、お酒を扱っていそうな店は一切なかった。少しもの足りない思いを抱きながら、高岡の駅で購入した鱒ずしを食べながら、列車の出発を待った。

万葉線の由来、そして今

 高岡は越中国の国府・国分寺があった由緒正しき歴史の町である。『万葉集』に数多くの歌を残した大伴家持が国司としてこの地に赴任したことから、高岡は『万葉集』ゆかりの地となり、ここを走る鉄道にも愛称として「万葉線」と名付けられた路線がある。
 万葉線の歴史は少し複雑だ。戦後富山地方鉄道が敷設した軌道が発端となり、加越能鉄道が引き継いで路線の統廃合を経たものの、モータリゼーションのあおりを受けて一旦は廃線の危機が迫る中、長年にわたる存続のための努力が実って、平成14年から第三セクター、万葉線株式会社として生まれ変わった。
 万葉線は歴史を感じさせる名前とは裏腹に、軽量軌道交通(Light Rail Transit=LRT)という新しい概念を採り入れた鉄道としても有名だ。JRローカル線が苦戦する中で、地方の中小都市では軽快な電車が活躍し始めている。
 2011年、JR高岡駅が橋上駅として生まれ変わり、今年の春、ステーションビルが竣工されたことに伴って、万葉線が100mほど伸長されてJR高岡駅と直結し、乗り換えがスムーズになった。改札を抜け、広々とした瀟洒なコンコースに設置されたエスカレーターを1階に降りれば、すぐ目の前に新しい万葉線の停留所がある。
 そこに現れたのが、真っ赤なボディーのMLRV1000系、愛称アイトラムだ。真っ白な新しい停留所との取り合わせが何とも日本離れしている。まるでヨーロッパの都市にでも来たような気になる。それもそのはずで、この車両はドイツのボンバルディア社から技術提供を受けて製造されたものなのだ。
 LRTは、都市交通として利用しやすい路面電車の良さを活かす一方で、時代遅れとなっていた路面電車車両の欠点を克服した画期的な鉄道だ。おもにヨーロッパの中核都市を中心に発達した技術である。驚くほどの低床構造で、しかもフルフラット化されている。この特殊車両をLRV(Light Rail Vehicle)という。これなら路上から乗車するのも簡単だ。
 LRVの車輪はボディーに覆われてあまりよく見えない。2両編成に見えるが、つなぎ目の幌の下の部分には台車があって、二つの車体が同じ台車に乗る連接構造になっているはずなのだが、残念ながら外からはよくわからない。乗車すると座席の下に大きなタイヤハウスがあって、そこに車輪が潜んでいることは想像がつくが、車軸はどうなっているのだろうと疑問は膨らむばかりだ。想像される車輪の大きさからすると、車軸はどうしても床よりも上になければならない。もしも床の下に車軸が通っているなら、余程車輪の直径は短いに違いないが、そのような小さな車輪で、素晴らしい加速と乗り心地が実現できるはずがない。まさに魔法のような車両なのだ。詳しい構造はとても文章では書き表せないが、日本人が思うほどには新幹線技術が世界で高く評価されていないように、路面電車分野でも日本は大きく遅れをとってしまった。誠に残念なことである。
 ステーションビル1階にある高岡駅を出ると、軌道はすぐに単線となって広いメインストリートに入っていく。片側2車線の堂々とした道路の中央に単線の路面電車軌道が走っている。お互い邪魔することなく、ここでは自動車と路面電車が完璧に共存しているのだ。富山県は各世帯あたりの自動車保有率で全国一位二位を争うマイカー依存度の高い土地柄だから、この共存のあり方は重要なポイントである。どうして複線ではなく単線なのかは、おそらくローカルかどうかの問題ではなく、邪魔せず邪魔されずに定時運行するためのものなのだろう。
 最初の末広町電停を過ぎ、片原町交差点で 右折すると、すぐ目の前に青いトラムが待っていた。車内にいた親子連れが「ドラえもんだ!」と声をあげる。ここにもコミック列車が走っていた。色といい丸みを帯びたボディーラインといい、確かにドラえもんそっくりである。しかも乗降口はピンク色でどこでもドアそっくりである。片原町の停留所には交換施設があり、こちらがやってくるのを待っていたのだ。それにしても色鮮やかな電車達で、見ていて楽しくなる。
 片倉町の先、坂下町に交換施設はなく、その先電停ではないところに交換施設があった。高岡駅からほぼふた停留所ごとに交換施設がある。広小路で国道の方が左折して行き、万葉線はそのまま真っ直ぐに県道を進んでいく。ここからは道幅が広がって片側2車線のまま万葉線も複線区間になる。電停ゾーンは道路側が片側1.5車線になるものの、市の繁華街からも少し距離があるために交通量は少なめのようである。
 万葉線には昭和42年製の旧型路面電車も走っている。複線区間が尽きる米島口には車庫があり、冬場に活躍するラッセル車が停まっていた。米島口からは一旦専用軌道となり、進路を東に変えながら上り坂となって、JR氷見線を跨いでいく。能町口で再び併用軌道にもどるが、ここからは風情もかわって住宅街となる。それほどの住宅密集地ではないので、専用軌道でも良さそうな感じだが、土地の取得にはやはり資金がかかるのであろう。自動車の数がさほど多くないところを単線の路面電車が進んでいく。
 吉久停留所を過ぎると、万葉線は道を外れて専用軌道区間に入る。周囲は川と工場地帯と住宅が点在する、どちらかと言えば殺風景な地域である。
 ヨーロッパのLRVは、繁華街のある市街では路面電車として、また郊外になるとそのまま通常の鉄道として、どちらにも対応可能な優れものとして開発された。従って郊外に専用軌道のある万葉線はまさにLRVが活躍する条件にぴったりの路線なのである。しかも六渡寺から終点の越の潟までは、法律上も路面電車のような軌道ではなく、歴とした鉄道として認可されている。
 ただここで疑問が生じる。万葉線には旧型の路面電車も走っている。果たして鉄道法上、路面電車が軌道ではなく鉄道を走っても問題は生じないのだろうか。どうでもいいことだけれど。
 庄川を柵のないガーター橋で渡るのは、少しばかりスリリングだ。一瞬脱線したら沈む前にどこから逃げようかと考える。
 進行左側前方に、美しい巨大な斜張橋が見えてくる。新湊大橋である。富山新港の入り口に架かる自動車専用橋であり、万葉線は越の潟で行き止まりとなる。その先は県営の渡し船である越の潟フェリーが対岸の堀岡と結んでいる。万葉線の全列車と全フェリーは、わずか3分の接続時間で連絡し、対岸まで移動可能となっている。
 越の潟の停留所ではたくさんの人が電車を待っていた。みなそれぞれカメラを抱えている。なにごとだろうと思ったが、こちらはこの先次の訪問先が待っているので先を急がなくてはならない。アイトラムの写真を撮ったら、同じ電車で引き返そうと思ったが、ドアは開いているものの誰も乗ろうとはしない。まだ乗ってはいけないのかなとためらううちに、電車はドアを閉めて出発してしまった。「しまった! このあとの列車接続に響くなあ」と思っていると、大勢の人を率いているバスガイドさんが、「皆さん。次にお待ちかねの電車が参りますよぉ」と言う。ここでようやく思い当たった。
彼らは先程片原町ですれ違ったドラえもん号に乗る観光客だったのだ。それならこちらも便乗しようということで待っていると、正面にドラえもんの顔が描かれたアイトラムがやって来た。まさかここでもコミック列車に乗れるとは思わなかった。ホームで待つ観光客の一群は我先にと車内に雪崩れ込んでいく。最後になって、出遅れたのび太のように、どこでもドアからドラえもんの世界に入って行く。天井を見上げると、そこにはタケコプターで空を飛ぶドラえもんの姿があった。

注)後で調べてわかったことだが、幌の下に台車はなかった。ふつうは安定性を確保するために1車体に2軸4輪のボギー台車が2つ付いているものだが、アイトラムでは1車体に1つの台車しか付いていない。従って2両編成に見えるが、連接して初めて1両分となるような台車構造であることがわかる。


帯に短く襷に長い絶景路線

 ドラえもん号を楽しんだために、高岡駅まで戻ってしまうと氷見線には間に合いそうもない。幸いなことに万葉線と氷見線とは高岡から能町まではほぼ並行に走っているので、万葉線の新能町から氷見線の能町まで歩くことにした。地図で見ると、能町駅は側線が何本もあるかなり広い駅である。付近は工業地帯なので、貨物の仕分けをする駅なのだろう。踏切を渡り、しばらく歩くと能町駅はあった。無人駅だった。
 氷見線は高岡と氷見を結ぶ全長16.5㎞のローカル線だ。一日上下それぞれ18本走っているので閑散路線とは言い難く、そこそこのローカル線である。日中は1時間に1本走っているのだから、まずまずとすら言っても良いだろう。しかしながら、廃止寸前だった万葉線が15分間隔で走っていることを実感した今となっては、氷見線が地元住民から見放されてしまうのもわかるような気がする。しかも能町・高岡間に駅はわずか一駅しかない。万葉線の停留所は10カ所あるにも関わらずである。地方のローカル線は、地元密着という視点からは、帯に短し襷に長しなのである。

 誰もいないホームに佇むと遠くを万葉線の旧型路面電車が行くのが見えた。あのガーター橋の下、雑草が生えてレールの見えなくなった所を氷見線は走っている。しばらくすると、高岡方面から氷見行のガラガラのディーゼルカーがやって来た。鋼鉄製、重量級のキハ47、忍者ハットリくん号である。あらためてLRTという概念の先進性が納得できる。私の大好きな重量級の鉄道は、中小都市の地域密着形鉄道にはなり得ないことを改めて思い知らされた。このガランとした能町駅の空間に、爽やかだけれどどこか侘びしい秋の風が吹き抜けた。
 氷見行はしばらく工業地帯を走り、それが尽きると富山湾が開けてくる。右手後方に先程訪れた越の潟の新湊大橋が見えた。午後の日差しが傾いて来る。この先に以前から行ってみたかった雨晴の駅がある。源義経が東北に逃亡する際、雨が晴れるのを待ったという伝説にちなむ土地だが、有名なのは富山湾越しに見える立山連峰である。空が澄み渡る冬の晴れ間にしか見えず、年に数回とも言われている。雨男の自分だから、いくら雨晴らしでも天気は良くないだろうとは思いつつ、写真で見た絶景の場所にはどうしても行ってみたかった。
 列車は雨晴に近づくにつれて荒磯の脇を通っていく。海が荒れたらすぐに運休になりそうな風光明媚なところである。先程のLRTのことなどすっかり忘れて、やはり列車の旅はいいもんだと思うところが現金なものである。立山連峰は見えないけれど、海に浮かぶ女岩の向こうに能登半島が広がっている。
 雨晴の駅周辺は、キャンプ場や旅館があって、シーズンには多くの人たちで賑わうようだ。しかし列車で訪れる人は少ないという。何と言っても、富山県はマイカー所有率が全国トップクラスなのだから仕方ない。
 雨晴からは海岸から遠ざかって、ほんのわずかで終点氷見に着く。氷見海岸に行ってみたい気もするが、折り返しの列車に乗らないと今日の計画が全うできなくなる。改札を出て駅舎の写真を1枚撮っただけで、再び ホームの戻ることにする。
 先程見たばかりの景色をもう一度眺めながら,再び能町まで戻ってきた。能町から高岡までが未乗区間なので、しっかり見ようと思う。途中の越中中川からは大量の高校生が乗ってきた。県立高岡高校の生徒達だ。たった一駅区間だけ満員列車となって、あっという間に高岡駅1番ホームに滑り込んだ。
 高岡は大伴家持と藤子不二雄の町だった。そして鉄道の今と未来を考えさせる町でもあった。もうすぐ新幹線が開業し、高岡にとってまた新しい時代がやってくることだろう。数年後にはどんな変貌を遂げているのか、興味津々である。

(2014/10/1乗車)


クイズの答え)アンパンマン:土讃線、ゲゲゲの鬼太郎:境港線、サイボーグ009:石巻線

2014年8月28日木曜日

おばこはキャビンアテンダント

まごころ列車
 羽後本荘10時47分発の矢島行は、おばこアテンダントが案内してくれる 「まごころ列車」だった。一日14本(上下28本)運転されている鳥海山ろく線の中で、たった1本だけ往復している列車に巡り会えたのは、偶然としか言いようがない。世の中悪いことばかりじゃない! 
2000形 まごころ列車
羽後本荘にて
 由利高原鉄道<ゆりてつ>は国鉄旧矢島線を譲り受けた第3セクターの鉄道会社だ。従業員は30名。どうしてそのようなことがわかるかと言えば、アテンダントの佐々木さんがくれたチラシに全員の名前と顔写真、役職が記されていたからだ。個人情報がうるさい昨今、顔の見える会社経営には頭が下がる。それほどに皆さん、一所懸命だし親切なのである。
子吉・鮎川間の田園風景
 羽後本荘を出て羽越線と分かれるとすぐに田園地帯を走る。冬には地吹雪が襲うため、線路脇には風雪よけのフェンスが続くが、嬉しいことにシーズン以外は折り畳んであり、鳥海山を眺められるようになっている。今日はあいにく雲が厚く垂れ込めて、鳥海山は裾野さえ姿を見せていない。おばこ姿のアテンダントはこのような日のために用意した写真を見せながら説明をしてくれる。田圃の稲はだいぶ黄色く色づいているが、穂が大きく垂れる程ではないから収穫まではまだ間がありそうだ。
子吉川に沿って走る
 まごころ列車は丘陵地帯を登っていく。ただ<ゆりてつ>は登山鉄道でも山岳鉄道でもない。高原鉄道と名乗ってはいるものの、最も高い所でも標高100mに満たない。雪深い北国であること、鳥海山の山麓であることによるイメージとして命名されたのだろう。全線23㎞の、子吉川の緩やかな流れに沿って走るローカル線である。
旧鮎川小学校
 この地方にも過疎化の波は押し寄せ、廃校となった旧鮎川小学校の脇を通過する。地元の人たちの協力によって秋田杉を活用した木造校舎が綺麗に維持管理されているのだという。おばこアテンダントの解説がなければ、見落としてしまうような風景だ。注意してみると、ぬくもりのある校舎がひっそりと建っている。味気ない都会の小学校校舎で学ぶ子供達と比べて、田舎の子供達は恵まれているなと思うが、今では子供自体がいない。何とももったいない。地方はいつ復活するのだろう。

タブレット交換


先に到着した羽後本荘行から
タブレットを受け取る駅員 
(黄色いレインコート着用) 
列車は3000形
 
 過疎化ばかりでなく、モータリゼーションの普及によって地元民の鉄道利用が大幅に減っているのは、ここ由利高原鉄道も例外ではない。そのため<ゆりてつ>では毎月様々なイベント列車を走らせて乗客の獲得に努めているのだそうだ。たとえば2月には酒蔵開放無料列車、4月は雪室解禁生酒列車、8月には納涼ビール列車が運行される。秋田は酒好きが多いのだろうなあ、ぜひ乗ってみたいと思う。鉄道はお酒と相性がよいのだ。車ならこうはいかない。ただ、秋田の酒豪に囲まれたら大変なことになるのでやめておいた方が無難だと思い直す。
 <ゆりてつ>は、決して呑兵衛ばかり相手にしているわけではなく、季節の風物詩を載せた七夕列車やハロウィン列車もあるし、沿線B級グルメ列車なるものもあって、アイディアの限りを尽くしている。イベント列車ばかりでなく、鉄道好きに対してもいろいろな配慮がある。おばこアテンダントによる鉄道グッズ販売はもちろん、駅で販売する硬券など、ファンの喜びそうな工夫がある。
タブレットを肩に  
掛け、矢島行ホームへ
(帰路撮影)
 しかしそれ以上に興味深く嬉しかったのは、ここではいまだにタブレット交換が行われ、しかも駅員や運転士がそれを乗客にじっくりと見せてくれることである。カメラを向けられると嫌がる鉄道員が多い中、<ゆりてつ>はそんなファンの姿を楽しんでいるとすら思える。
 タブレット交換を見ることが出来るのは、ほぼ中間に位置する前郷駅だ。鳥海山ろく線で列車交換施設があるのはここだけである。羽後本荘や矢島も含めて、前郷以外はすべて片側1線のホームのため、2列車が同時にホームにつけるのはこの駅だけだ。だから全線で同時に運行できるのは2列車で、ケーブルカーのように途中で交換すると考えればよい。
 
矢島行に渡される 
大きめのタブレット
車両基地は矢島駅にあるので、営業時間外はすべての車両が矢島駅に戻ってくるようなダイヤになっている。従って、矢島・前郷間に1列車、前郷・羽後本荘間に1列車だけ入れるようにし、前郷ですれ違うようにすれば衝突は避けられる。そこで、それぞれの区間に入る許可証として二つの通行手形があるのだ。矢島・前郷間のタブレットは肩から掛けられる大きめのものを、前郷・羽後本荘間は手で握る感じの小さめのタブレットが使われていた。これなら間違うこともない。
とても原始的な方法だが、電子機器などの特別な施設がいらない絶対確実な方法で安全が保たれている。
羽後本荘行が受け取る
小さめのタブレット 
 ところで、<ゆりてつ>では通票閉塞器は使われているのだろうか。赤い箱のタブレット発行機である。この点は確かめる時間がなかった。
 先に触れたように、ここの鉄道員の方々は、このタブレット交換を鳥海山ろく線の魅力の一つだということをよく自覚していて、一連の作業を興味深い見せ物としても乗客たちに紹介していた。これも観光路線として集客しようとする企業努力の一つだ。帰りのことになるが、羽後本荘行の運転士が受け取るタブレットをカメラに収めようとすると、にこっと微笑みながら「はい、撮って!」とばかりに受け取ったタブレットを見せてくれた。そのサービス精神旺盛な姿には感服した。この会社は一丸となって観光客を歓迎してくれている。

終点矢島駅て・・秋田完乗!


秋田杉の美林
 おばこアテンダントがワゴンを押して<ゆりてつ>グッズを販売に来た。出来るだけ協力したいが、駅名のキーホルダーや携帯ストラップには興味がない。ちょうど手頃なものに、絵葉書があった。「旅情画集 鳥海山麓線おばこ号物語」と題した絵葉書集は、四季折々の自然の中を1500形の走る様子が描かれていた。良い記念になるし、このハガキで便りを書こう、大学時代の友人の郷里がここ矢島なので、久し振りに便りを出そうと思う。
矢島駅にて
 羽後本荘を出てちょうど40分、まごころ列車は終点矢島駅に到着した。おばこアテンダントがドア前で見送ってくれる。せっかくだからと記念撮影をお願いすると快く笑顔で引き受けてくれた。おもてなしの心を忘れない鉄道だ。
 改札を出ると、今度は売店でお茶のもてなしを受けた。品の良い白髪の女性が、いろいろ世話を焼いてくれる。その奥がおそらく本社なのだろう。「地元の人が好むようなお酒はありますか」と尋ねると、「ここには置いてないんですよ。駅前の広場を突っ切ると蔵元があって、そこで販売しています。美味しいお酒ですから」と教えてくれる。友人はまさに酒豪で、彼が好んで呑んだようなガツン系の日本酒を試してみたかった。
矢島駅全景
 駅から一番近い天寿酒造はすぐに見つかった。残念ながら地元の人が好むタイプは一升瓶しかなく、さすがにそれは断念して、持ち帰りやすい小瓶の吟醸酒を購入して駅に戻った。酒蔵は他にもあるが、次の列車の時刻が迫っている。
1500形
 旧矢島駅は3年ほど前に解体され、現在はお洒落な駅舎に生まれ変わっている。駅前は広々としていて、ちいさな町ながらも整っている。地方が衰退していく中で、おそらくここも苦労が絶えないに違いない。経済効率優先の中にあって、東京への一極集中に拍車がかかっているが、いつまでもこの国がこんなことで良いわけはない。秋田県は子ども人口の減少が最も激しいところだが、レベルの高い教育で見直されている県でもある。この町にも頑張ってもらいたいなとつくづく思う。
 駅の片隅に最古参の1500系が停まっていた。絵葉書の中の<ゆりてつ>を代表する列車である。更に帰りの列車は赤い2000形だった。在籍するすべての種類の車両に出会うことができた。これで思い残すことはない。
 秋田県を走る鉄道にはこれですべて乗り尽くすことができたが、鳥海山が綺麗な時期にもう一度訪れたいものだ。それがいつになるかはわからないけれど、由利高原鉄道鳥海山ろく線は、また忘れられない鉄道のひとつになった。
(2014/8/28乗車)

注)観光客を呼び寄せるための企画列車「まごころ列車」に乗るには、秋田9:42発の普通列車か酒田9:40発の普通列車に乗らなくてはならず、観光客が利用しそうな特急いなほには接続していない。東京からは新幹線こまちに乗っても間に合わない。たまたま青森を早朝に発ち、普通電車を乗り継いで来たら、ちょうど良い時間になったのである。観光客誘致のためなら、運行時間の見直しが必要だろう。


 

2014年8月26日火曜日

北海道乗り尽くしの旅・・序章

新幹線開業の前に

 このところ北海道の鉄道は暗いニュースばかりが続いている。車両火災、貨物列車の脱線と保線の手抜き、保線データの改竄、運転手による車両破壊、度重なる発煙トラブル・・・ひとつの鉄道会社が立て続けに社会信用を失墜させるような事態を生むというのは、国鉄末期の組合闘争以来のことだ。この会社で働く人たちの中に、どこかで道を誤ってしまった人がいるのではないだろうか。
 北海道に心を寄せ、鉄道による旅をこよなく愛する自分にとって、近年のJR北海道の動向はとても見過ごせないことだった。来年度末には新幹線が函館北斗まで開通し、本来なら青函トンネル開通以来の慶事であるはずなのに、果たして安全は確保できるのかといった新幹線の脱線を臭わすような物騒な報道までが飛び出すまでになっている。悲しいことである。
 こんな時だからこそ、応援もしたい。旅立つ自分を周囲の者は「脱線しない?大丈夫?」と気遣うが、大雨でも降った際には怖いなあと正直思わないでもない。ただ旅の後半は天候も回復という予想だから何とかなるだろう。それよりも新幹線が開通したら、おそらく津軽海峡線も無事ではあるまい。函館湾をめぐりながら北海道に渡るという、あの素晴らしい景色とワクワク感は二度と味わえなくなるのだという焦りが、旅心に火を灯したのだった。今一度函館湾や噴火湾を右手に見ながら、北海道乗り尽くし旅に出掛けよう。

準備
たかが指定券
されど指定券

 東京から東室蘭までの座席指定をネット上で行うためには、JR東日本とJR北海道それぞれのWebで行う必要がある。するとJR東日本のWebで購入可能な新青森・函館間は新幹線乗り継ぎ割引が適用され特急券が半額になるが、JR北海道Webで購入する函館・東室蘭間には割引が適用されず割高になる。それを避けるためには駅の緑の窓口で購入する方法もあるが、いちいち進行右窓側を指定すると、駅係員は汗をかきかき時刻表と格闘するはめにおちいる。特に本州から北海道に渡る際には、列車は一度スイッチバックして進行方向が変わるのだから、駅係員の頭の中は混乱するし、それに気付いて貰えない場合は、海の景色が見えなくなる。気の小さい自分は、駅員に申し訳ないと思うし、ましてや後ろで並ぶ人の冷たい視線にも耐え難い。それなら誰にも迷惑をかけないWeb購入が一番だし、JR北海道には正規料金で乗車するので、多少なりとも応援になる。ということで、面倒な函館までは自己責任で座席指定をし、函館・東室蘭だけは窓口で購入することにした。趣味を貫くには、手間とお金がかかるものだ。

函館へ

 というわけで、朝6時32分一番の東北新幹線はやぶさ1号で東京を発ち、10時17分には函館行きスーパー白鳥に乗り継いで、11時36分青函トンネルを抜けて北海道の大地の上に出た。
 青函トンネルは新幹線と在来線の共用区間のため、木古内駅の手前で新幹線から在来線が分かれていく。その後すぐに廃線となった江差線の錆びた線路が合流する。江差線の踏切には線路を塞ぐように立ち入り禁止のフェンスが張られていて、痛々しい。人も列車も立ち入り禁止なのである。
 新幹線停車駅の木古内駅前は、ツルハドラッグの看板が一番目立っている。ここに新幹線が停まるのかと俄に信じられないほど、あたりには人家がまばらでだ。それでも奥津軽いまべつ駅よりも遙かに人口は多いと思われる。江差や松前の人たちが車でやって来て旅立つ駅なのだろう。
 安定した共用区間の軌道と違って、ここからは在来線的な揺れとなる。今日の函館湾は霧に煙っている。細かい雨が降っている。新幹線は風雪よけのフェンスが高く張り巡らされているので、車高の低い新幹線からはたぶん車窓風景は楽しめないのではと思われる。やはり景色は在来線が一番だ。並行する松前国道の道路標示には函館まで33キロ、30分とある。この辺りの海峡線(正式には江差線。江差には行けない江差線である)は単線のため、泉沢駅で旧国鉄時代からの古い車両を使った485系白鳥と交換する。リニューアルされたとはいえ古参の列車だ。
 今日は津軽半島が微かにしか見えないが、それでも下北半島もなんとか確認できる。その間が陸奥湾で、雲に覆われたもっとも奥に青森の町がある。モノトーンの世界に広がる津軽海峡は波も穏やかで、トンビが優雅に風に乗っている。函館山が見えてくるが、あいにく山頂は雲の中だ。列車は等高線に沿って、方向を変えながら函館を目指す。 渡島当別駅を通過する。ここは男爵いもとトラピスト修道院で有名な所だ。
函館市電
 この辺りからは車窓真横に海を挟んで函館山が見えてくる。これから函館湾に沿って、180度進路を変えながら函館を目指すのだ。かつての北海道の玄関、函館へのこの最終アプローチがたまらなく好きだ。到着まであと10分、コンビナートのある上磯からは町の風景に変わる。全国チェーンのパチンコ屋を過ぎ、進路を右に右にと変えれば函館は近い。


室蘭へ

 北海道新幹線は函館には停まらない。15㎞弱離れた渡島大野を新函館北斗駅として開業することになっていて、現在駅舎の建設と五稜郭・渡島大野間の電化工事が行われている。開業時には札幌行スーパー北斗が新函館北斗に停車し、函館方面へは電車が運行されるようになるのだそうだ。とすると、ここでも在来線の車窓が大きく変わることになりそうだ。
 というのも新幹線開通後は札幌方面へのコースが一部変わるからだ。現在函館を出発した列車は市街地を抜けると松並木が続く大沼国道と併走しながら七飯(難読駅:ななえ)に着く。ここから下りの優等列車はすべて渡島大野がある本線と分かれて、大沼公園までの標高差を緩和するために造られた通称藤代線を通るのだが、上り線を跨いで右に大きくカーブを切りように造られた高架線からの風景は、北海道に来たなあということを実感させてくれるスケールの大きな風景なのである。上りは上りで、大沼から高度を下げてくる仁山・渡島大野間の風景もなかなかの見ものなのだが、それぞれ味わいが異なる。新幹線開業後は下りの貨物以外は藤代線を使うことはなくなってしまうのだろう。少し残念な気がする。
 高度を上げてトンネルをいくつか抜けると、左側に小沼の岸が迫ってくる。いつもなら小沼越しに駒ヶ岳の優美な姿が見えてくるのだが、あいにくの小雨模様で全く対岸すらも霧に煙っている。北海道有数の車窓風景が今日はお預け、少々退屈になってきた。またちょうど交感神経と副交感神経が切り替わる居眠りタイムとなったばかりでなく、昼食で訪れた手打ち蕎麦屋で呑んだ日本酒が利いてきたのか、うつらうつらと恍惚状態になってきた。ふと目が覚めたときは、森駅に進入する時で、目の前には噴火湾が広がっていた。
 雲は厚いが、何とか対岸は見える。八雲まではほぼ対岸の室蘭方面と並行して走るので、これから目指す室蘭は次第に後方に退いていく感じ、八雲から長万部へは方向を90度変えて室蘭を目指すので、この辺りは円弧を描くというよりは、正方形の三辺を走る感じだ。天気さえ良ければ有珠山や昭和新山のような火山が見えるはずなのだが、残念である。ただ、函館本線は当分健在だから、また次のチャンスがあるだろうと慰める。
 かに飯の看板が見えれば長万部は近い。函館本線が左に分かれていき、室蘭本線に入る。荒涼とした風景が続くが、次第に山が海岸に迫ってくる。静狩からは線路を敷けるような土地はなく、トンネルが連続する。近年、秘境駅として有名になった小幌駅は、トンネルとトンネルの間にホームを設えたような無人駅だ。あたりに集落は全くなく、熊笹に覆われた獣道を少し歩くと崖と崖に囲まれた入り江があるという。酔狂な釣り人くらいしか降り立つことのない小幌駅を、北斗9号はあっという間に通過した。列車は猛スピードで驀進している。揺れも少なくない。大丈夫かなという思いが一瞬よぎる。保線の不安は鉄道の安全神話を根底から揺さぶっている。
 室蘭は大規模な工業地帯だ。複雑に入り組むパイプと巨大なタンク、建物から漏れ出すような白い煙等々がコンビナート特有の雰囲気を作り出している。湾を結ぶ釣り橋が室蘭の玄関口で出迎えてくれる。
(2014/8/25乗車)

北海道乗り尽くしの旅①

室蘭本線(東室蘭→室蘭7.0㎞)・・残りあと5路線


洒落た駅舎の室蘭駅
地球岬にちなんだモニュメント
 室蘭本線の起点は長万部、終点は岩見沢、残念ながら 全線を走破する列車はない。一方で本線の途中駅東室蘭から室蘭までは支線的な扱いだが、札幌を中心に列車の運行形態が整備されている現在では、同区間は早くから電化されていて、L特急が結ぶ重要区間となっている。ただ函館方面から直通する列車はないため、本州方面からの観光客はちょっと行きにくい場所となっている。そのようなわけで、何度も北海道を旅していながら、この区間が未乗車となっていた。地球岬にも行ってみたいし。
 室蘭本線の歴史は古く、明治25年北海道炭礦鉄道によって岩見沢・室蘭(現東室蘭)間が開業された時に遡る。豊富な北海道の石炭を本州各地に積み出す港として室蘭は栄えた。明治42年には室蘭製鉄所も創業して、今日の工業都市の基礎が築き上げられた。東室蘭と長万部の間には山が海まで迫り出す難所があるため、室蘭本線が長万部と結ばれるのは昭和6年になってからだ。全線開通してからは、函館・札幌間の連絡が山越えのある函館本線から平坦な室蘭本線に移っていった。戦前は国策として樺太経営が重視されていたこともあって、函館・稚内間を札幌を経由せずに長万部から岩見沢に抜ける急行列車注1も設定されていたようだ。まさに室蘭本線の面目躍如たる列車だけに、乗ってみたかったものである。
 さて、北海道のすべての鉄道を乗り尽くす今回の旅であるが、まずこの東室蘭から始めようと思う。早朝に東京を発ち、新幹線と2本の特急を乗り継いで東室蘭のホームにたったのは、午後4時11分、函館発の特急北斗9号から降りる乗客はそれほど多くはなかった。途中1時間半ほど、函館で昼食のために下車したとはいえ、ほぼ一日中列車に揺られていたことになる。鉄道好きの自分には随分と近くなったなという印象だ。新幹線もなく、青函トンネルもない時代だったら、今頃ようやく青森に着いた頃だろう。東室蘭に着くのは明日未明・・ふうぅ。
 雨模様の肌寒い中、跨線橋を渡り室蘭行の普通列車が待つホームへと向かう。待っていたのはキハ40の二両編成だった。電化されてはいても、この区間の普通列車はほとんどが気動車で、札幌行特急は電車が使われている。古い車両を使いまわすJR北海道の倹約ぶりが窺える。
支線内をキハ40が往復している
 16:23発室蘭行は学校帰りの高校生の「専用列車」だった。東室蘭を出発するとしばらく直進し、本線の方が右手に分かれていく。本線と支線に挟まれた土地に製鉄工場がある。巨大なプラントは、その桁外れの大きさで見るものを圧倒する。進行左手は住宅地で、決して新しくはない14階建ての巨大アパートが、昔の賑わいぶり注2を彷彿とさせる。今は使われていないJR貨物駅や伸び放題の雑草を横目で見ながら、すぐに最初の停車駅輪西(わにし)駅に到着する。数名の高校生が下車するが、駅の柱は錆びだらけで、長い間手入れをしないままの駅舎に、この地域の経済状況が透けて見えてくる。工業地帯だけあって沿線には大型重機の基地があったり、さまざまなタンク・プラント・工場建物が途切れることなく続いている。日常離れしたこのシュールな光景は京浜工業地帯を走る鶴見線の風景に似ている。国道を挟んだ山側には住宅地が広がっている。辺り一面はかつて海だったところで、埋め立て地に新日鐵住友金属の大工場が造られた。狭い土地に鉄道と 国道、さらにバイパスが走っている。御崎(みさき)駅でも数人の高校生が下車し、その次の母恋(ぼこい)駅ではほとんどの高校生が降りてしまった。ここから見える山の向こうおよそ3キロの所に地球岬注3がある。
 わずか5〜6名の乗客を乗せたキハ40は、短いトンネルを抜けてすぐに終点室蘭に到着した。電化されているとはいえ、趣は鉄鋼の町のローカル線だった。
(2014/8/25乗車)


 注1)函館・稚内を結ぶ有名な列車といえば、1961年(昭和36年)運行が始まった急行宗谷だろう。1972年、函館・倶知安間に乗車したことがある。急行型気動車キハ56に乗って3時間の旅だった。森駅で駅弁の立ち売りがあり、いかめしが飛ぶように売れていた。函館11:50発、函館本線経由、札幌16:25着、終点稚内には22:42着。当時の多くの列車は函館を中心に各都市に向けて運行されていた。
 注2)これだけの大工場があるのだから働く人も多いのではないかと、タクシーの運転手さんに尋ねると、工場は無人化が進み、今では人がいらなくなったので、工業都市は寂れる一方だという。北海道で賑やかなの札幌だけだそうだ。
 注3)室蘭は山一つ隔てて工業地帯と自然が並ぶ不思議な都市である。地球岬やそれに続く断崖は絶景で有名だが、後ろを振り返ると工場地帯と住宅街がすぐ近くまで迫っている。近年はそれを逆手にとって観光PRがなされている。室蘭名物で忘れてはならないのが、「焼き鳥」。東室蘭の中島地区には、有名な焼き鳥屋がある。民芸調のクラシカルな店にはジャズが流れ、予約なしでは入れないほどの人気だ。地方都市は道を歩く人があまりいないのに、どこから人が集まるのだろうという活気ある店が必ずある。それを見つけるのも旅の面白さの一つだろう。

翌朝、苫小牧へ

 6時28分東室蘭発の苫小牧行に乗る。電化路線だが普通列車のため昨日と同じ気動車キハ40だ。ワンマン列車なのに3両もつながっている。乗客はまばらだ。それにしても思うのは、近頃は都会人の方が早起きだなあということ。通勤時間がかかるからあたりまえだけれど。今は人が少ないからいいものの、この先運転手一人で対応できるのかなあと心配になるが、所詮乗客のほとんどは目的地が同じだから下車駅が有人であれば何の問題もないのだろう。しかも乗客のほとんどは高校生、定期券利用者だから車内改札をする必要もないし、私のような一見さんのために無駄な人件費をかける必要もないのだろう。
 ということで、駅に停まるたびに高校生がたくさん乗ってきた。途中に3校くらいはありそうだ。時々高校生が入れ替わる。
 今日は山側に席をとる。本線だけに線路状態も良く、快適な走りだ。登別に近づくと、カルデラ状の山のお釜の中だけに雲がたまっている。幻想的な朝の風景である。駅舎は有名観光地にふさわしい重厚な作りで、駅近くには遊園地があって古風な観覧車が行楽地を演出している。その先はやはり北海道、放牧地が続く。昨日と打って変わって青空が広がり、北海道らしい牧歌的な風景が広がってくる。そこに突然、巨大な製紙工場が出現する。駅名は北吉原だ。そういえば、静岡県の田子の浦には製紙工場が集まっているが、駅名は吉原だった。とすれば、これって北海道の吉原の意ではないか。真偽のほどはあきらかではないものの、ひとりそう思って大発見をしたような気になる。興が覚めるのでネットで確認するのはやめておく。
吹き出しそうな樽前山の形
 白老あたりからは樽前山が独特な美しい姿を現す。今にも噴火しそうな火山の形だなと思う。アイヌコタンがあるこの辺りは、日本の鉄道の中で最も直線距離の長いところとして有名だが、実際はポイントや駅付近には当然曲線区間がある。これはあくまでも地図上の話で、それは中央線の中野・立川間と同じである。
 列車が苫小牧に着く。下車すると、好天の空のもと爽やかすぎる寒さだ。よく見れば半袖は自分だけ。高校生もサラリーマンもみんな長袖姿であった。上着着用も少なくない。今年の北海道は秋が早いようだ。

日高本線(苫小牧→様似146.5㎞)・・残りあと4路線

工業地帯の中にある苫小牧駅
刷毛で掃いたような雲が秋の
訪れを感じさせる。    
 さあ、いよいよ日高本線に乗るときが来た。朝の8時少し前、苫小牧駅には高校生たちを乗せた通勤通学列車が、室蘭・岩見沢・静内・札幌から集結してくる。キハ40に乗った生徒達は、ここで下車する人もいるが多くはまた乗り換えて近隣の学校へと散っていく。跨線橋の上はホームを移動する高校生でごった返していた。1番ホームに降り立つと、そこには秋めいた青空の下に、静内からの3両連結キハ40が日高本線塗装で待ち構えていた。「優駿浪漫」と描かれたサラブレッド仕様の気動車である。無骨なJRにしては旅心をそそる心憎い演出だ。サラブレッドがデザインされたロゴにも力が入っている。車体側面の行き先表示には本来なら琺瑯引きのサボがはめ込まれているはずだが、心ないファンが取り去るからだろうか、黒いペンキで「日高本線」と描かれていた。すでに支線のない日高線だが、本線と描かれているのがいい。150㎞近くある堂々としたローカル線なのだから。
日高仕様 運転台下と側面中央(右)
 折り返しの様似行は、2両を切り離して1両のワンマンとなった。先程までの喧噪はどこへやら、車内は各ボックスに人が埋まっても、立ち客はいない。この列車は終点様似でJRバスに接続し、襟裳岬観光をした上で、バスを乗り継ぎその日のうちに帯広まで行ける唯一の列車なのだが、今時そのような利用者はいないのだろう。強い日差しは覚悟の上、海の景色が楽しめる進行右側に席を取る。
 8:00ちょうど、苫小牧をあとに様似に向けて出発する。電化された複線の室蘭本線と並んで3線仲良く7キロ近く直進する途中には苫小牧貨物駅があって、大量のコンテナを仕分けしている。ここからは本州各地(その多くは隅田川駅)に何本もの高速貨物列車が運行されていて、今も貨物輸送は鉄道を支えていると実感する。工場群が続き、上空には車輪を出して着陸態勢を整えた航空機が千歳空港に向かって飛行している。猛スピードで疾走しているにもかからわず、室蘭本線と分かれて最初の停車駅勇払に着くまで12分が経過していた。ここは工場通勤者のために作られた駅のようである。そこから先は緑の大地と青い太平洋とコンテナ埠頭が広がっている。
 高い煙突が見えてきた。北電の苫東厚真(とまとうあつま)発電所である。昨日は製鉄所が大きいと感じたが、発電所の巨大さは並大抵ではない。ここは石炭火力発電なのだろう、巨大なあずまやがあって、その下にはきらきら輝いた石炭がうずたかく積まれていた。それをすくうためのブルドーザーが、とんでもない大きさの重機なのだ。石炭の量も半端ではない。埠頭には外国からの石炭運搬船が係留されるのだろう。周囲は緑に囲まれ人が暮らす様子はまったくない。
鵡川駅にて
鵡川(むかわ)に着き、ビジネスマン風の人が降りていった。ここでは様似から来る上りの始発と交換の為、運転調整で7分停車する。のんびりとホームに出て、爽やかな風を受けながら伸びをする。気動車のアイドリングの音以外、物音ひとつないホームを歩くと、ローカル線の旅の良さがじわっと心に沁みてくる。ゆるやかな時間の流れと、このままずっと身を託しておきたくなるような光と風に包まれているからだ。贅沢な時間を過ごしていると思う。
茶色い太平洋
日高本線は海沿いに南下していくが、時々集落を求めて海から離れる。遠くに日高山脈が連なり、富川でまた人が降り、連日の雨で泥水となった沙流川を渡る。沖の海が青いのに海岸近くの海が濁っていたのはこのためだ。海は汚れているのではなく、川が運ぶ大地の栄養で豊かな海が保たれているのだろう。
日高昆布の天日干し
ところどころで日高昆布の天日干しが行われている。幅広の高級品はあるのだろうかと目を凝らすが、判別できるほどゆっくり走ってはくれない。苫小牧を出発してちょうど1時間が経過し、日高門別に着いた。辺り一面につがいとなったトンボの群れが乱舞している。短い夏が終わろうとしているのだ。
静内駅にて 苫小牧行(右)
静内は沿線随一の町だ。日高本線では苫小牧・様似を結ぶ列車は1日5本運転されているが、静内を境にして、苫小牧・静内間に3本、静内・様似間に2本の区間列車が設定されている。機関区もあるほどの拠点駅で、ここでまた列車交換があり、運転調整のため10数分停車する。先程から苫小牧行はどれもが2両編成で、単行なのはこの列車ばかり。つまり午前中は苫小牧への利用客が多いわけで、襟裳岬観光に鉄道がまったく使われていないことがわかる。「優駿浪漫」といっても利用者は地元民ばかりなのだろう。下車する客が多く各ボックスは原則1名で、空いたボックス席も現れた。
馬の放牧
 東静内からは海岸と別れ内陸を走る。馬の放牧地が広がるが、思いの外馬の数は少ない。この時期はどこかへいってるのだろうか。日高地方は全国のサラブレッドの8割を生産する世界第5位の馬産地なのだそうだ。沿線には至る所に放牧場があり、乗馬クラブもたくさんあって体験乗馬も可能なサラブレッド観光が盛んな土地だとパンフレットに記されている。浦河にはJRAの日高育成総合施設があり強い競走馬を調教する世界一流の施設なのだという。浦河駅は片側1線の小さな駅だが、町自体はこの辺りでは比較的大きく、民家の多くが真新しく建て替えられているのは、おそらく馬で潤っているからなのだろう。
終点様似
 浦河から再び海岸を走り、終点近くで海岸と分かれ、いくつかの丘陵をトンネルで抜けると終点様似に到着する。11時19分、苫小牧からは3時間19分の旅であった。前方、車止めの先には日高山脈の最南端、名峰アポイ岳が恥ずかしいのか、山頂を隠して横たわっていた。
(2014/8/26乗車)


北海道乗り尽くしの旅②

襟裳岬


岬突端付近から振り返る
 バスが岬に近い丘陵地帯を登り詰めると、右手にも左手にも真っ青な海が広がってきた。およそ周囲300度近い角度、後ろまで海が広がっている壮大な絶景がそこにあった。手持ちのカメラレンズではとても捉えきれないスケールだ。魚眼レンズを使うか、あるいは高い所まで昇って鳥瞰写真でも撮らない限り収まらない風景だ。何とか両側の海が写せないかとようやく探したポイントで撮影したのが右の写真だ。18㎜の広角で、ちっぽけながら二つの海岸が何とか入った。
襟裳岬灯台
 広尾行のバスが来るまで2時間半もある。岬の隅々まで散策するのには十分な時間だ。まずは灯台を目指す。岬の駐車場には3分の2程度車が止まっているので、8月も終わりが近づいているものの、観光客はまだ結構いるのだ。香川ナンバーや福岡ナンバーの車が混じっているが、大方は札幌や帯広から来ている。バイクのツーリング族も少なくない。50CCバイクに荷物を括り付けて旅している人がいる。とにかく例外中の例外は、鉄道とバスを乗り継いでやって来る旅行客なのである。中国人観光客も多い。彼らはツアーバスでやって来る。この日、クラブツーリズムで日本の中高年も大挙訪れていた。
記念写真ポイント
 青い海と青い空には白亜の灯台がよく似合う。それを通り過ぎれば太平洋が目の前に広がって、沖まで点々と岩が続く襟裳岬に辿り着く。襟裳岬は風の岬として、またゼニガタアザラシの生息地として有名だ。残念ながら肉眼で見えるのは海鵜ばかりだが、広がる水平線をみていると地球の丸さを感じることが出来る。丸く見えるのは知識がそうさせる錯覚なのだそうだが、この際そんなことはどうでもよい。ずうっとここにいれば視力は確実に回復するのではなかろうかと思えるほど、目にも心地よい。遠くを見ると水晶体が平べったくなるために眼球の筋肉がゆるむんじゃないかなあ、などと考える。
アポイ岳の向こうに様似がある
 様似の駅では雲に隠れていたアポイ岳も姿を現してきた。岬の地下に建設された風の館に行ってみる。ここからは単眼鏡でゼニガタアザラシが観察できる。親切な案内嬢が、岩の上で寝転がっている群れと、海で泳いでいる群れに望遠鏡を向けてくれた。いるいる! かなり遠い岩場なので見つけられなかった筈だ。先を急ぐ観光客の多くはこの施設をパスしていたが、ゼニガタアザラシを見ないで帰るのは勿体ない。ここはのんびり公共交通機関派の勝利である。風の館には風速25㍍の強風が体験できる風洞実験施設もあって、なかなか興味深い。

黄金道路
覆道が続く黄金道路

 様似からやって来た本日最後の広尾行JRバスからは数名の乗客全員が下車し、かわって数名の客が乗るだけのスカスカの状態で出発した。襟裳の集落を過ぎ、山が近づくと、その先は有名な黄金道路である。昭和9年竣工のこの道は、当時黄金を敷き詰められるほどの莫大な建設費がかかった道ということで名付けられ、全国的に有名になった。以前から通ってみたい道の一つだった。落石防止のため、至る所に覆道(ふくどう、ロックシェッド)があって、柱の間から海が眺められる。小樽から積丹に向かう途中にも同じようなところがあって、かつて訪れた際に路線バスから眺めた、息を呑むような波に洗われる奇岩の絶景が忘れられない。

 ところが技術の進歩と経済発展はここ襟裳にも押し寄せていて、今は次々と長大トンネルがくり貫かれ、安全と利便性が優先された道になっているのだった。地元の人には朗報だろうが、身勝手な旅人にはとってはガッカリだ。路線バスはひたすら暗闇の中を突っ走る。今でも海岸沿いの道は残っているようだから、この次は車で来なければいけないなと、鉄道の旅をしているのも忘れて、決意するのだった。

旧広尾線跡を訪ねて


旧広尾駅
 襟裳岬から広尾までは1時間、JRバスの運行はここまでだ。広尾のバス停留所は、旧広尾線の広尾駅をそのまま利用したところだった。駅は町の顔だから、おいそれとは取り壊せないのだろう。
 広尾線が1987年に廃止されたあと、引き継いだのは十勝バスである。旧線にほぼ沿った広尾国道を通って帯広までを2時間20分ほどで結んでいる。距離にして80㎞以上あるので時間がかかる。その出発まで30分以上ある。なんとも接続の悪いことよと思うが、もともと利用者が少ない上に、それはそれで戦略があったのである。
バス待合室に記念館併設
 この旧広尾駅は現在鉄道記念館になっていて、観光客の訪れを待っていた。バスの切符販売窓口のおじさんは、「バス発車までまだ時間があるので、どうぞ見ていって下さい」という。廃線跡に残った鉄道記念物を駅に展示するのは、音威子府にも天北線資料室があるが、当時を懐かしむ地元の人たちのメモリアルとして大切にされているのである。
通票閉塞機
 広尾線のジオラマ、ランプや鶴嘴、鉄道員が着た服、記念切符等々、とにかく関係あるものならなんでも寄せ集めたような展示だが、それはそれなりに面白い。通票閉塞機が一台置いてあったが、これは広尾駅が終点で隣駅が一つしかないからだ。一つの区間に1編成しか列車を入れさせない通行手形の発行機だから、その操作をするには人手が必要だった。つまり列車交換が可能な駅や終着駅にはすべて駅員が配置されている必要があった。無人駅だらけの今とは大違いだ。機械化される前は人々が安全を守っていた。近代化は人々から仕事を奪い、地方は衰退に向かうのである。
C11動輪
 駅の外にかつてレールが敷かれていた痕跡はどこにもない。ホームの前は駐車場になっていて、隣の公園にパットゴルフを楽しみに来た人の車が置かれていた。この公園は鉄道記念公園と名付けられ、片隅には腕木式信号機や蒸気機関車の動輪がモニュメントとなっていた。
 これらを見て回るうちにあっという間に30分は過ぎてしまった。バス停に戻ると、3〜4人の乗客が待っており、しばらくすると派手な黄色にカラーリングされた十勝バスがやって来た。おお、綺麗だなと思ったのもつかの間、乗車してみて愕然とする。窓がすこぶる汚いのだ。海水の飛沫を浴びてそのまま乾いてしまったのか、夥しい水滴の跡が連なっていて、これでは美しい北海道の景色が堪能できないではないか。しかも帯広までは2時間以上乗っていなければならないのだ。最悪!
 窓が綺麗だったらなあと、ため息が出るほど、外は広大な農園が広がっている。ここは十勝平野の南側に位置する畑地帯なのだ。真っ直ぐな国道と直角に交わる農道、隣の農園との境界に植えられた樹木が彼方まで続いている。更別村に着いたときは、ここは日本の村という概念では捉えられないなと感じた。国道から側道に入ったバスは、広々とした役所や野球場が点在する所を走っていく。あたりは芝生が敷き詰められ、樹木も多いが、どこも手入れが行き届いている。車内放送が「○○団地」というので外を見ると、バス停から団地とおぼしき平屋の建物までは芝生が敷き詰められ、あたかもアメリカの民家を見ているかのようだ。冬は厳しいのだろうなと思いつつも、この日本離れした景観が忘れられない。
駅舎は気動車の間か?
 広尾線が日本中に名を轟かせたのは、愛国と幸福という駅が人気を呼んだからだ。どうやら今でも観光地となっているらしく、快走するバスからも幸福駅とおぼしき所が垣間見られた。残念ながら激しく汚れた窓を通してシャッターを切ったので見苦しい点は許していただきたい。
 殆ど乗り降りのないまま、バスは帯広市内に入る。高等学校、イトーヨーカ堂、イオン、長崎屋等々、少しでも人がいそうな場所に停まりながらバスは進むのだが、一向に乗客は乗ってこない。あたりは薄暗くなってくる。初めて訪れる町への到着は出来れば明るいうちが望ましい。帯広の第一印象は、整然と綺麗なビルが建ち並ぶ、それでいて人通りのまばらな、ちょっと寒々とした街である。これは決して帯広が悪いわけではない。こんな時間に着くような旅を計画した自分に責任があるのだ。でも、苫小牧から襟裳を抜けて帯広に至るには、これしかないのも事実だった。公共交通機関による旅が時代遅れになってしまったのである。
(2014/8/26乗車)