2017年8月23日水曜日

鉄道遺産としての肥薩線 


承前 山岳鉄道の最高峰

 矢岳越えを終えた「いさぶろう号」は、軽やかなエンジン音を響かせながら加久藤盆地、別名えびの盆地へと下っていく。ここは日向の国、宮崎県だ。肥薩線はその名の通り肥後熊本と薩摩鹿児島を結ぶ路線なのだが、ほんの少しだけ日向の国の西端をかすり、そこに位置するのが真幸(まさき)である。勾配の途中にある真幸駅もまた、素通り不能のスイッチバック駅だ。ここでも列車は一旦車止め手前で停車し、運転手の移動後に、真幸駅へ向けて逆進する。
列車は真幸駅の脇を通過してから
バックしつつ駅に停車する。  

 なんとここに待ち受けていたのは、地元の人達の歓迎であった。十数人の人達が、幟をを持ち、手を振って出迎えてくれる。アテンダントの説明によれば、地元の特産品やお弁当なども販売しているとのこと。また、ホームには「真幸の鐘」があり、それを衝く幸せになれるという。あの手この手で町おこしなのだなと思うものの、ここまで多くの人が集まって歓迎してくれるのも珍しい。

 真幸から吉松は近い。盆地を囲む山々の斜面を滑り降りながら、日向と別れて薩摩に入るが、むろん景色が変わるわけではない。地図を見ながら列車に乗っているから分かるだけであって、ほかの乗客の人達は一瞬宮崎県に入ったことなど、知りもしないし関心もないだろう。オタクとは言われたくないが、言われても仕方ない。
『赤と黒』
スタンダールじゃないけれど…

 「いさぶろう号」は吉松が終点である。乗客の多くは、ホーム向かい側で待つシックな黒い特急「はやての風号」に乗り換えて、そのまま鹿児島へ向かう。こちらも水戸岡鋭治氏のデザインによるリニューアル車で、窓からはふんだんに木を用いた雰囲気のある車内が見える。思わず乗りたくなるが、ここは我慢。
都城からの吉都線列車
前方左が人吉方面

 吉松は吉都線の乗り換え駅で、都城を経由して宮崎に繋がる交通の要衝である。かつては熊本と宮崎を結ぶ急行「えびの」が走っていたが、今は需要がないため、吉都線は完全にローカル線化している。肥薩線からは見えなかった天孫降臨神話で名高い高千穂峰も、吉都線からはよくみえるので、霧島連山すべてを眺めるなら、この景勝路線がお薦めだ。そのためJR九州では、肥薩線と吉都線を併せて「えびの高原線」という愛称をつけているくらいだ。熊本県民にはピンと来ないだろうけれど。

遺産
近代化産業遺産【石倉】

 交通の要衝だっただけに、吉松駅には鉄道遺産が残されている。その一つが、2009(平成21)年に近代化産業遺産に認定された石倉だ。肥薩線(旧鹿児島本線)が全通する前の1903(明治36)年に作られた燃料庫で、石造りの鉄総施設としては珍しいという。たしかに全国各地に残るランプ小屋は煉瓦造りだ。電気のなかった時代、ランプの灯りだけが頼りだっただけに、当時を記憶に残す貴重な施設といえる。

 いまでこそ吉松は静かなローカル駅だが、最盛期には機関区・保線区が置かれ、鉄道の町として600人以上の鉄道員が所属するこの地域の拠点であった。その面影がそこかしこに残されていて、駅周辺には蒸気機関車C55なども静態保存されている。この機関車の動輪は、スポーク型の美しいタイプだ。

 肥薩線の旅を終えるに当たって、最後に触れておきたい駅がある。嘉例川である。テレビで紹介されることもあって、比較的多くの人に知れ渡るところとなった。
嘉例川駅舎

 木造平屋切妻造の駅舎は、吉松の石倉と同じ1903(明治36)年、国分(現隼人)から吉松まで旧鹿児島本線が開通した際に建てられたもので、ほぼ当時の原形を保ったまま残っている。お椀を伏せたような緑濃い小山の脇に、ちょこんと建った田舎の駅舎を見ていると、まるでタイムスリップしたかのように、時代を忘れ、刻む時を忘れてしまう。薄暗い待合室には三和土の上に木製のベンチ。その隣は駅員の居なくなった事務室。ホームとの間には木製の改札口。駅舎の脇には樹齢100年を越える大きく育った木。
嘉例川駅と都城行普通列車


 有名になったこともあって、観光客が少なからず訪れる。その多くはマイカーでやって来る。私を乗せた列車が嘉例川に着いた時には、すでに駅前に何台も車が停まって、見学者が数多くいた。静かな田舎駅を想像していただけに少し意外だったが、列車が行ってしまい、しばらくするうちに、さあっと水が引くように人がいなくなってしまった。一緒に降りた高校生達も家族の出迎えの車で行ってしまい、次の列車を待つ私一人だけが残された。

 2006(平成18)年、嘉例川駅舎は国によって登録有形文化財に指定された。「日本でもっとも豊かな隠れ里」という日本遺産に始まり、絶景と数多くの産業遺産に恵まれた肥薩線。地元では現在、世界遺産に登録しようと運動を始めている。
(2017/8/23乗車)

 




世界で一番すてきな通学列車


ローカル線と高校生

 全国のローカル線を最も利用しているのは高校生に違いない。各駅停車の旅を続けていると、朝夕はほぼ必ず通学や帰宅途中の高校生と一緒になる。社会人はマイカー通勤が多いのだろうか、高校生に比べると人数は少ない。高校生の場合は、仮に家から駅が遠い場合も、駅までは車で送ってもらい、その先は通学列車を利用する。
 ローカル線には昔ながらの古い車両が使われることが多く、ボックスシートと呼ばれる4人が向かい合わせに坐るタイプがほとんどだ。外の景色を楽しむ旅人には重宝な座席だが、4人席を一人で占めてしまう場合が多い。特に高校生は見知らぬ人と同席などしないので、仲間同士が出入り口近くに溜まることになる。中はスカスカ、両脇は大混雑という風景が繰り広げられる。こうしてみると、4人ボックスシートが次々に廃止され、景色を楽しめないロングシートが幅を利かせてきているのも分からなくはない。せめて、2人掛けのクロスシートにして欲しいが、安価なロングシートが採用されがちなのは誠に残念だ。
 鉄道が走るような地域は高校の数も複数あるから、制服ごとにどっと下車したり、また乗車してきたりと、賑やかな光景が繰り広げられる。見ていると、学校ごとにカラーが違って面白い。乗車すると同時にスマホに集中する高校生がほとんどだが、中には全員ノートと参考書を取り出して勉強し始めることもある。そんな場合、心なしか大人びた顔つきで、しかも身なりはきちんとしているように見えるが、こちらの先入観もあるかもしれない。テスト前のにわか勉強の可能性だってあるからだが、いずれにせよ、必死にノートを見ている高校生は可愛いものだ。
 大都市圏では新幹線通学する高校生もいるが、私が経験上一番驚いたのは始発の特急列車で宇和島から松山まで通う高校生が少なからずいたことだ。途中からもどんどん乗車してくる。おそらく県立の進学校は県庁所在地にあるからなのだろう。通学定期代も馬鹿にならないだろうから、親の苦労が偲ばれる。

高校生とサロンカー


 さて今回紹介するのは、それとは一線を画す、素敵な通学列車である。熊本県の人吉盆地を走る 「 くま川鉄道」は第3セクターのローカル線だ。国鉄湯前線として開業し、JRに移管後、平成元年に誕生した。沿線にはビックネームの観光地がなく、どちらかというと地味な田園路線だが、5校ほど高校があって通学路線としての需要がある。それにしても取り立てて特徴のない鉄道会社なのだが、大きく変貌を遂げたのは、水戸岡鋭治氏デザインの新型ディーゼルカーKT-500型が5台導入されたことによる。

 鉄道会社としては観光に力を入れて多くの客を招きたいところだが、やはり利用者の大半は高校生。素っ気ないロングシートが当たり前の路線に、特上のサロンが誕生したのだ。高校生達にとっても使い勝手の良いロングシートは、良くデザインされたソファー。

 また外の景色を楽しむことが出来るボックスシートも、お洒落な照明とテーブルを備えている。これなら会話も弾むはずだ。すべてのシートの柄は異なり、ロングシートとボックスシートの間には、パーティションとして肥後独楽などが飾られている。

 列車の交換で手の空いた運転手に「贅沢な列車ですね。素晴らしい」と語りかけると、「水戸岡さんのデザインです。大勢の高校生が乗るので、ちょっときついですが」と答える。どうやら席が足りないということらしいが、所詮どこでも高校生は立っていることが多いのだから問題ないだろう。それより、シートに座った者同士の会話が弾むところに設計者の狙いがあるのだろうから。

 人吉駅で乗車した際は、多くの女子高生で席は埋まっていた。車内に入った瞬間にその内装に驚いたのだが、まさか写真撮影をするわけにはいかない。しかし終点の湯前に着く時に乗車していたのは私だけだった。その際に車内の写真を心置きなく撮らせて貰った。

 こうしてみると、都会の学生は気の毒だなと思う。味気ない満員電車に揺られ、コンクリートジャングルの中の無個性な校舎で学ぶ生徒が大半だ。地方に行くと、学校の校舎が立派なことに驚かされる。そこに現れた水戸岡鋭治氏プロデュースのサロンカー。このような土地で成長すれば、感性も研ぎ澄まされるに違いない。この車両のテーマは「田園」だそうだ。勿論全線が田園地帯を走るからだが、そこにベートーベンが掛けてある。ヘッドマーク代わりに描かれたト音記号がその証拠である。
(2017/8/23乗車)



2017年8月22日火曜日

最果ての駅 九州編

南の果て


 北の最果て稚内から3068.4㎞、線路で結ばれた駅としては日本最南端の西大山にやって来た。開聞岳が間近に迫る風光明媚な無人駅だ。鹿児島中央から列車に乗った際は生憎の雨模様だったが、この駅に降り立つ頃には雨も止んで、開聞岳の裾野が姿をあらわしていた。駅の周辺はヒマワリ畑と一軒の土産物屋。朝が早いためか、店は閉まっているし、曇天のためか、ヒマワリはあちらこちらを向いて絵にならない。次の上りで一旦指宿まで戻ってみようと思う。

 ホームにはお約束通り、この駅の特徴を記したボードが設置されている。最北端の稚内と最東端の東根室は当然のこと、ここでは最西端として佐世保が示されていた。なるほど、西大山を本州最南端としてしまうと、最西端は松浦鉄道たびら平戸口としなければならなくなってしまう。JRとしては佐世保が西の端。だから西大山はJR最南端の駅なのだ。納得。

 指宿で砂蒸し風呂を楽しんだ後、4時間後にもう一度西大山に立ち寄る。だいぶ天気も回復し色鮮やかな風景になってきたが、太陽が移動して列車は逆光、恥ずかしがり屋の開聞岳は山頂が隠れたまま。わずかな停車時間の間に急いで写したのが左の一枚。日本最南端の駅の上にJRとあるのがミソである。

 再び車上の人となって終点を目指す。天気はどんどん回復したが、この先も開聞岳はついに山頂を見せてはくれなかった。残念だが、これでもう一度訪れる言い訳(誰への? 無論私の道楽を見て見ぬふりをしている人だが…)が出来た。

 揺られることおよそ50分、枕崎は真夏の太陽の真っ直中にあった。湿度はそれほどでもないが、とにかく日差しが強い。二ヶ月前に訪れた愁いに沈んむ稚内とは大違いだ。「さあ、昼食は鰹料理と生ビールだ!」と弾む思いで改札口を出ると、コジャレたプレートが下がっている。


「本土最南端の始発・終着駅」。稚内までは3099.5㎞。そういえば、枕崎と稚内は友好都市だった。稚内のホームにも同じような掲示があったなあと思い出す。二つの町は始発・終着駅で結ばれている。そのうち、青春18切符を使って両駅の間を旅してみたいと思う。どちらを始発駅にするにしても、ここに来るまでが大変で、終わった後が一苦労だなあと、愛好家としては嬉しい悲鳴をあげるばかりだった。
稚内駅の掲示(2017/6/28撮影)
(2017/8/22乗車)






もう一つの南の果て


 こんなところにも果てがあった。この視点で考えたことがなかったので、予想外のことに思わず笑ってしまい、嬉しくなった。鹿児島市電の谷山停留所である。洒落た駅舎の入口中央に、「日本最南端の電停」という立派な碑が建っている。

 なるほど、たしかにそうだよなと思うと同時に、それならば最北端は札幌だけれども、あの街は東西南北に碁盤の目のように広がっているから、該当する電停は一つではないぞ、いくつあるんだろうとワクワクしながらスマホでグーグルマップを開いてみる。


 そこで改めて知ったのだが、札幌の街はちょっと傾いているのだ。どうでもいいようなことだが、ざっと測ってみると10度ほど街全体が反時計回りに回転している。「へえっ、知らなかった!」と、知っていたからといってどうでもいいことに妙に感心しつつ、それならば最北端の電停はめでたく一つに決定! 最近環状運転が始まり終着駅ではなくなって風景が一変したが、大通に最も近く、十字路の角に三越のある繁華街、西四丁目こそが、栄誉ある日本最北端の電停である。
札幌市電 西四丁目電停
(2017/7/1撮影)

 地下鉄と接続する電停として、終日賑わう西四丁目だが、あそこを利用する人達に「日本最北端」だというプライド(?)はあるのだろうか。少なくともこの間訪れた際には谷山にあるような立派な碑は建っていなかったと思うけれども、充分に調べ歩いたわけではない。やはり確認に行かなければならないかなあと、愛好家としてはいくらお金があっても足りないなとため息が出るばかりだった。

(2017/8/23乗車)

2017年7月24日月曜日

こちらにお座り下さい…東北新幹線篇


発車のベルが鳴り止む前に

 新幹線からの車窓など興味がないとお思いの方もいらっしゃるようで。
 わからなくはありません。目まぐるしく跳び去る景色など見ていたら目が疲れて仕方がない。ということで、席に着くやいなやブラインドを下ろしてスマホをいじり始める方々が最近とても多いようです。とても残念で仕方がありません。そこで少しばかり提案を。

東北新幹線は左側、E席をどうぞ!
終点新青森時代 (2014/2/12)

 東北新幹線で新青森方面を目指す方は、ぜひ進行左側に席を取って下さい。みどりの窓口で自分に順番が回ってきたら、「進行左窓側をお願いします」と言えば、最近は余程のことがない限り係の人は対応してくれます。新幹線のシートは太平洋側から見てABCの3列シート、DEの2列シートとなっていますから、E席が左窓側です。
 ついでに列車は車両の中央あたりが一番揺れも少なく乗り心地が良いことを覚えておくと良いでしょう。長いものはどうしても重心から一番遠い両端の揺れ幅が大きくなりますから当然ですね。通勤電車に乗るときも中央寄りのドアから乗車すれば、倒れて寄りかかってくる人が少ないはずです。
 さて、南北に走る東北新幹線は、午前中東側つまり進行右側から日の光を受けますので、ブラインドを下ろす人が大半です。一方、左側は順光で眺める景色が美しい。そして、奥羽山脈を眺めながらの旅が楽しめます。準備は整いました。出発進行!

宇都宮から仙台は見逃せない
 
 最高速度275㎞で疾走してきた新幹線が宇都宮に近づくと、まずはすり鉢を伏せたような男体山が見えてくる。山肌が浸食されて縦縞模様が特徴的、ほぼ独立峰なのですぐにわかるはず。宇都宮を過ぎるとかすかに甲高いモーター音が高まって320㎞区間に入る。田圃のなか東北自動車道が近づき、一瞬併走して丘陵地帯に突っ込んでいく。自動車は時速100㎞前後で走っているが、その3倍で走る新幹線の速さが実感できる所だ。トンネルが増えてくるが、できるだけ注意を逸らさないこと。ちょっと居眠りをしている間に、那須連山を見逃してしまう。
 今どこを走っているか分からない人は、駅が目に飛び込んできたら、デッキに通じる扉上のLED掲示をチェックしよう。「ただいま那須塩原駅付近を通過中です」等のテロップですぐ分かる。プラットホームの駅名表示を識別できる人は、よほどの動体視力に優れた人だろう。私はいつも挑戦し、玉砕をし続けている。首を振っても確認できたためしがない。
 那須連山の主役は、那須塩原からは進行方向斜め前方に見える那須岳(茶臼岳)。白い噴煙が立ち上る。ちなみに、車窓の風景は普通在来線の方が数等上だが、こと那須連山に関しては新幹線が勝っている。市街地以外は防音壁に邪魔されることもない。在来線からは新幹線高架の柱に邪魔されて、まったく見えない。
 那須連山にお別れし、トンネルの中で関東に別れを告げて「みちのく」最初の駅、白河へ。トンネルをいくつかやり過ごせば、郡山。ここからは安達太良山に注目だ。別名乳頭山とも呼ばれるように、二つの山頂があって、楚々として控えめな優しい乳房が美しい。
 すぐに列車は福島駅に近づく。ここでは吾妻連山が見えてくる。特に見つけたいのが、連山の中にある吾妻小富士。山塊の中に小さな富士山の姿を見つけよう。ついでに福島駅では、分割作業中の「つばさ」と「やまびこ」が停車中かもしれない。福島駅を過ぎると山形新幹線が左に大きくカーブして遠ざかっていく。吾妻連山の外れ、山が低くなっているところが板谷峠だ。冬であれば、そこは薄暗い雪雲に覆われているに違いない。その先は豪雪地帯、米沢盆地である。福島県の中通り地方も雪は降るが、奥羽山脈の向こうは日本海側の別世界である。
 福島盆地の外れで全長11㎞の蔵王トンネルに入り、県も宮城に変わる。トンネルを出るとすぐに下を東北自動車道が通っている。そのあと一瞬で通り抜ける館トンネルがある。新幹線の行く手にポツンと小山があり、本来なら崩されてしまうほどなのだが、遺跡保護のために数10㍍のトンネルが掘られたのだという。山頂には社が祀られているが、勿論見えない。東北道からはよく見えるので、機会があればそこを突き抜ける新幹線を眺めて欲しい。私は何回となく東北道を通り、一度だけたまたま見たことがある。その時の印象はまさに蛇の腹巻き。
 さて白石蔵王に近づくと左前方に見えるのが蔵王連山だ。スキーのゲレンデがあるからすぐわかる。ただ蔵王山という山はない。主峰熊野岳と刈田岳を中心とした総称だ。見えているのは俗に言う宮城蔵王。車ならエコーラインで山頂付近まで行ける。なだらかな尾根道が特徴だ。
 さすが仙台は大都市。市街地が広がっているので、新幹線とは言え、かなり手前から徐行し始める。小高い山の上には何本もテレビ塔が建ち並び、それを迂回するかのように大きなカーブで線路は続く。青葉山の麓を流れる広瀬川を渡れば、高層ビルの建ち並ぶ仙台駅に列車はゆっくりと滑り込む。
 東京からのビジネス客の大半はこちらで降りてしまう。そしてまたビジネスマンが乗り込んでくる。仙台が東北の中心だということを実感する瞬間だ。

仙台・盛岡の夕陽に輝く人工美

 仙台を出たらまず白い観音様を探そう。真言宗大観密寺の仙台大観音像だ。高さ100㍍は仙台市制100周年にちなんでのことだという。1990年に竣工。フッ素樹脂塗装が施されているのでとにかく白い。若干距離があるので、注意していないと見落としてしまう。
 仙台から盛岡までは穀倉地帯が続き、めぼしい山はない。眺めて楽しいのは広がる水田の風景だ。江刺金札米など、いかにも高級なブランド米の産地が続く。田植え後の新緑のシーズンもいいが、黄金に実った収穫前の季節、夕日に照らされたこの地方を時速320㎞で疾走するのは実に爽快だ。半径4000㍍のカーブを減速することなく、車体を大きく傾けて走る時、窓一杯に金色に輝く田圃が視界に入ってくる。夕日に向かって進みたいなら、夕方の東京方面行き、進行右側がお薦めだ。ただその先、あたりは薄暗くなり、奥羽山脈を楽しむことは出来ないけれど。
 ここまでが国鉄時代に造られた新幹線。バブル前の日本が元気だった頃の鉄道だ。

整備新幹線の残念なところ

終点八戸時代     (2010/8/19)

 さて、盛岡と言えば岩手山なのだが、ここからは先は整備新幹線区間。時速は260㎞に落とされ、トンネルだらけで少し味気ない。更に掘り割りと高い防音壁の高架線ということもあって、岩手山が楽しめるのもそれほど長い時間ではない。もう少しフェンスが低ければなあ、たまにはトンネルから抜け出さないかなあと思いつつ、恨めしく思いながらの旅となる。トンネルを出ると防音壁があってすぐに駅、駅を出ると防音壁で守られながらまた長いトンネルだ。七戸八甲田駅付近から八甲田は見えるのか? それがよく分からないほど、外の景色が見られるのは一瞬の出来事だ。新青森に近づいた時、右手後方に見えてくるので、さっさと下車の準備をして、デッキから眺めるのが正解だろう。ちなみに三内丸山古墳も右側、青森市のランドマークである青森ベイブリッジや三角形のアスパムも右側だ。

ご乗車ありがとうございました

 いかがでしたか。E席、なかなか魅力的でしょう? 次回は、北海道新幹線でお待ちしております。

2017年7月1日土曜日

北海道の産業遺産①


冬の救世主キマロキ

 北海道の鉄道が輝いていた頃を偲べる博物館がふたつある。
 その一つめは名寄駅から徒歩20分ほどの小高い丘にある北国博物館だ。その見どころはキマロキと呼ばれる重厚長大な除雪のための蒸気機関で、宗谷本線の車窓からも眺めることができる。


 先頭から順に、9600型蒸気機関車(かんしゃ)・ックレー車・ータリー車・D51型蒸気機関車()。更に写真の編成は、最後尾に除雪にあたる監督員や作業補助員が添乗する緩急車(車掌車)が連結された全長75㍍の堂々としたものだ。
 鉄道の除雪と言えばラッセル車がなじみ深いが、この編成には連結されていない。そもそも雪深い鉄路をラッセル車なしにどうやって蒸気機関車が前進できるのか、私は長い間疑問に思っていた。
 もちろん北海道では数多くのラッセル車が活躍していた。ただ極寒の北海道ではラッセル車だけでは太刀打ちできない事態がやって来る、ということをこの博物館にやって来て知った。
 ラッセルによって確かに線路上の雪は取り除くことが出来る。ところが繰り返し線路脇に押しのけているうちに、やがて雪の壁が出来上がり、力では押しのけられない時がやってくる。ラッセル車が身動きできない時がやってくるのだ。そこに救世主として現れるのがキマロキというわけだ。キマロキの要はマックレー車とロータリー車のペアである。

 マックレー車とは、かき寄せ式雪かき車のこと。線路脇の雪の壁を崩す役割がある。カナダ人マックレーが考案したものを国鉄苗穂工場が製作した。進行方向に向けて「ハの字」型に羽根が開く構造となっており、うずたかく溜まった雪を再び線路上にかき寄せる働きを持つ。車室の下に大きなタンクが見えるが、ここに圧縮空気をためてそれを動力として羽根の開閉を行ったものと思われる。自走能力がないために、先頭の機関車で牽引した。

 その後ろに控えるのは赤い羽根が特徴的なロータリー車である。大きな羽根で雪を遠くまで吹き飛ばす。マックレー車が幅広く掻き集めた雪を効率良く飛ばすことができた。ロータリー車の後ろには炭水車が連結されている。というのも、ロータリーは蒸気機関で回転しているからである。しかし、自走能力はない。そのため後ろから蒸気機関車に押して貰う必要があった。こうして長大なキマロキ編成が誕生した。

 まだ道路が完備されていない時代、鉄道は1年を通して人と物資を安全に運ぶことの出来る唯一の交通機関だった。極寒の北海道にあっては、人がいる限り、鉄道が長期にわたって不通になることは許されなかった。鉄道は生命線。だからキマロキは最強の救世主であり、人々を守る鉄道員の誇りでもあった。

 鉄道車両の野外展示の多くは、長い間の風雪に痛めつけられ、見るも無惨に錆び朽ち果てているものが多い。しかし名寄のキマロキは保存会の人々によって定期的に塗装され、冬には雪囲いされて守られてきたため、とても美しい状態で展示されている。訪れた日もちょうど2年に1度の塗装作業の真っ最中だった。頭の下がる思いがした。
(2017/6/28訪問)
*キマロキは廃線となった旧名寄本線上に展示されている。

北海道の産業遺産②


蒸気機関車を支えた技術

 北海道の鉄道が輝いていた頃を偲べる博物館、その二つめは小樽市総合博物館だ。総合博物館とはいうもののほぼ鉄道博物館であり、しかも日本有数の施設だろう。それもそのはず、ここはかつて北海道開拓の要となった幌内鉄道の起点、旧手宮駅の鉄道施設なのだ。それがそのまま博物館となったもので、機関車庫三号(明治18年竣工)のように重要文化財まである。
 
 さて、ここではあまり他に類を見ない展示施設を紹介しよう。それは蒸気機関車資料館だ。

 蒸気機関車は数千点の鉄・銅・鉛の金属部品などからできていて、日本を代表するD51型蒸気機関車の場合、約123トンの重さがあり、同程度の大きさの電気機関車の1.4倍もの重量がある金属の塊だ。その塊を動かすためには、部品一つ一つが高熱高圧蒸気の力によって機械的動作を繰り返すしかない。そのため部品は摩耗し、腐食するので、その整備の苦労は計り知れなかった。

 ねじやボルトなどの小物から動輪や主連棒などの大型部品に至るまで、分解、補修、組み立ての繰り返し。その際に必要になるのが、様々なゲージだった。例えば車輪の摩耗や軸のゆがみはそのまま大事故に繋がる。それを防ぎ、効率の良い整備をするために、現場では様々なゲージや工具が開発されていた。それらが資料館には所狭しと展示されている。

これらの展示を見ていると、当時の技術者が如何に創造的な仕事をしていたかということを思い知る。東海道新幹線を作ることに尽力した島秀夫は、もともとは蒸気機関車の設計を行っていた。コンピュータもない時代、製図板と向き合いながら、効率の良い蒸気機関を追究し、自分の頭の中で空間的なイメージを二次元に落とし込んでいく。蒸気機関車は現代人にとってはノスタルジックな鉄道遺産に過ぎないが、当時の人々にとっては、時代の最先端を行く交通機関であり、それに従事する鉄道員は最高の頭脳の持ち主だったということだ。ここにあるもの、それを生み出した技術者がどれほど優れていたかを改めて思い知る場として、ぜひ注目したい展示だと感じる。

 今日、日本各地で蒸気機関車の復活運転が行われているが、その準備と維持には莫大な時間と労力が払われていると聞く。もの作りが得意だと言われている日本にとって、蒸気機関車の再生・維持は、それを証明する必要条件のように思える。
(2017/7/1訪問)

北海道の産業遺産③


小樽市総合博物館の特徴ある展示物

1980(明治13〜)年代
しづか号【鉄道記念物】
米国ポーター社製

官営幌内鉄道6番目の蒸気機関車。1号の義経号は現在京都鉄道博物館に、2号の辨慶号は大宮の鉄道博物館に所蔵されている。牽引する客車は幌内鉄道の貴賓車い1号。特徴は、最前部に障害排除のための木製カウキャッチャー、大型の前照灯、火の粉を軽減する煙突ダイアモンドスタック、ボイラー上の鐘など、西部劇に登場するアメリカンテイスト満載の外観。



1895(明治28)年
大勝号【鉄道記念物】
現存する国産最古の蒸気機関車 手宮工場製

1889(明治22)年幌内鉄道は財政基盤が脆弱なままに、北海道炭礦鉄道に譲渡された私鉄。1905(明治38)年に鉄道国有法により国鉄となる。1895年3月の日清戦争勝利にちなんで命名された。国産蒸気機関車としては、2例目となる。ポーター社製の蒸気機関車のほぼコピーだが、設計図から製作に至るまで、すべて日本人が行ったという点で極めて意義深い。











1909(明治42)年
アイアンホース号
ポーター社製

1993年に米国から購入された機関車で、日本鉄道史とは直接関係ないものの、幌内鉄道で用いられた蒸気機関車と同じポーター社製であり、今も園内で訪れた人々を運ぶ動態保存機。燃料は重油を用いていて、煙突もダイアモンドスタックとはなっていない。
小樽市総合博物館は、蒸気機関車に関する膨大な史料と同時に実際に機関車を整備し運転するノウハウを持っている点で、他を寄せ付けない施設と言える。









1944(昭和19)年
キ270
ラッセル車 苗穂工場製



基本形のラッセル車。前面で線路上の雪をかき分け、更に屋根上のタンクに詰められた圧搾空気の力によって両翼が開いて、線路脇に雪を押しやる。雪を両側に掻き分ける単線用のタイプ。自走能力はなく、蒸気機関車が後押しした。





1944(昭和19)年
キ718
ジョルダン車 苗穂工場製


圧搾空気の力で両脇に広く広がる羽根を持つ。ラッセル車で押しのけられた雪を更に外側に掻き出すことができたが、雪の抵抗が大きいところでは使えず、主に駅構内・操車場で利用された。






1944(昭和19)年
キ752
ジョルダン車 苗穂工場製


キ718と同時期に作製され、後年圧搾空気から油圧に変更されたタイプ。











1956(昭和31)年
キハ031【準鉄道記念物】
レールバス 東急車輌製

稚内で10年間活躍したもの。利用客の少ない地方にはどのような車両を走らせたらよいかという問題は、いつの世も難しかったようだ。寒冷地用に運転台下にはスノープラウが付き、客室の窓は二重窓となっている。全長10㍍、車輪は二軸。バス用のディーゼルエンジン搭載。乗り心地に難があり、2両連結の場合運転手も二人必要だった。


1976(昭和51)年
DD14 323
ディーゼル機関車 川崎重工製

キマロキ(産業遺産①参照)の能力を1台に集約した除雪車。つまり雪を掻き寄せ、遠くに飛ばしながら自走することができた。除雪装置を取り外すことが出来たので、冬以外にも構内作業に利用できるはずだったが、片運転台としたため、後方視界が悪く、ほぼ除雪用として用いられた。




その他


木製の除雪機。詳細未調査。











冷房はグリーン車だけ。

 広々とした敷地内には、昭和に北海道で活躍した急行車両などが展示されている。屋外展示のため保存には相当苦労しているようで、痛みも激しいのが気がかりだ。訪れた日も修復作業が行われていたが、数が多いだけになかなか手が回らないようである。
 もともと国鉄の施設だったものが、今は小樽市が管理運営することになった。JR各社の中で、JR北海道とJR四国がなかなか本格的な鉄道博物館を持てないでいる。それを補う小樽総合博物館の努力は賞賛されて良い。


左の建物は、旧日本郵船(株)
小樽支店(裏手)。     
 小樽市がこの鉄道施設に力を入れるのには訳がある。小樽観光で欠かすことが出来ないものに小樽運河があるが、それと並ぶ観光スポットが、小樽市総合博物館から歴史建造物が多く残る寿司屋通りまでのおよそ1.5㎞続く、旧国鉄手宮線の遊歩道である。旧色内駅から旧手宮駅の一区間が、そのまま残されている。幌内鉄道に始まる北海道の開拓史の中で、小樽が果たした役割は大きい。それを感じさせてくれる鉄道関連施設であるだけに、大切に保存されているのだ。
(2017/7/1訪問)