2018年5月9日水曜日

鉄道会社はお寺さん

鞍馬寺本堂を目指す

 京都北山の鞍馬寺といえば、鞍馬天狗か牛若丸かというほどに、昔からヒーローとの関わりが深い。年配の方々ならば、ついでに「とん、とん、とんまの天狗さん♫」を思い出すかもしれないが、もちろんこれは鞍馬天狗のパロディ。オロナイン軟膏のお世話にもなりました。それはともかく、天狗から武芸を教わった牛若丸、もとい義経を含めて、鞍馬は天狗関係者の住み処である。だから鞍馬の駅を降りると、まずは真っ赤な天狗がお出迎えしてくれる。
叡山電鉄鞍馬駅前

 駅から山門までは歩いてすぐだが、そこから本堂までが実に遠い。清少納言が『枕草子』で記したように、「近うて遠きもの、くらまのつづらをりという道」というくらい、山登りを覚悟する必要がある。つづら折りとは鞍馬寺の参道のことで、途中には鞍馬の火祭で有名な由岐神社や義経ゆかりの場所がある。参拝しながら歩いて登り、本堂にお参りした後は奥の院を通って貴船神社までトレッキングするのが、鞍馬寺参拝のお約束みたいになっている。山歩きの苦手な、か弱い平安女性じゃあるまいし、だからこんなところにケーブルカーがあるなどとは、ちっとも知らなかった。
 しかし、今私は全国の鉄道すべてに乗らねばならないという修行の身である。そこに鉄道があるなんて知らなかったで済む話ではない。由岐神社も義経供養塔も吹っ飛ばし、平安女性よりも安直に、鞍馬寺本堂を目指さなければならなかったのだ。
普明殿

 こうして若葉の美しい季節の夕方、鞍馬寺の山門までやって来た。ケーブルの最終は16時半である。日没は19時だから少々早い気もするが、連休を終えて人もまばらだから仕方ない。受付で拝観料を払おうとすると、
「16時で本堂は閉まっています。ですからお金は頂きません。どうぞそのまま参拝して下さい。ケーブルの最終は16時半ですよ」と、再現不能の優しい京都なまりで説明してくれた。それにしても本堂が閉まった後にケーブルに乗る人なんているのだろうか。

 山門からすぐの所に普明殿という建物があった。過去には素通りしていたところだ。鉄筋コンクリート造りの、まるで休息所のような雰囲気だから、これからつづら折りを目指そうと張り切っている者には関心が沸くような場所ではないので、見落としていた。なんとここが駅だったのだ。建物入り口には「普明殿」とあるものの、正式名「山門駅」などとはどこにも記されていない。どこの観光地でも、ぜひお金を遣って貰おうと「ケーブル乗り場」とか「近道こちら」とか、うるさいほどの看板が立ててあるものだが、やはりここは聖域らしく金儲けの札はどこにもない。
 ふと入り口脇の掲示板を見てみると、様々な宗教行事のお知らせの下に、小さな札がぶら下がっていた。そこに「ケーブルのりば」と小さく書いてある。これに気づけという方が無理というもの。最初から知っている人以外は歩いて登らせたいのだろうか。

功徳を施す


 普明殿に入っても、そこにケーブルカーは見当たらなかった。ここでも控えめに、「ケーブルは二階から…」とあるだけだ。誰もいない階段を上ると、がらんとした空間に、誰も座っていないパイプ椅子だけが並んでいる。順に座ってお待ち下さいと貼り紙がある。慈悲深いことである。
 切符の自動販売機は片隅のテーブルの上に置かれてあった。百円玉2個入れると、レシートのような「切符」が出てきた。そこには「御寄進票 大人200円 鞍馬山鋼索鉄道 当日限り有効」と記され、18.5.9 16:19と日時が打ってある。「御寄進票かあ」と独り言つ。こちらが乗せて頂くのに、何か功徳を施したような気分になった。さすがお寺さんだと感心する。

 功徳票、もとい御寄進票に書かれているように「鞍馬山鋼索鉄道」というのが、このケーブルの正式名だ。日本で唯一、宗教法人が経営する鉄道である。だから社員(?)は鞍馬寺と刺繍の入った作務衣を着ている。16時31分、1分遅れで作務衣を身に纏った乗組員の案内で車内に入る。乗客は私と、発車直前に飛び込んできたもう一人の男性。3人を乗せた車両が警笛を鳴らして山門駅を後にする。

 それは全長191㍍、高低差89㍍、全線単線のケーブルカーだった。普通ケーブルカーといえば、2輌の車両同士が中間地点で擦れ違うはずだが、「鞍鉄」の場合、擦れ違う車両がない。1輌だけが上り下りしているのだ。終点が近いので見ればすぐわかる。多宝塔駅にはさぞかし強力なモーターがあって巻き上げているのだろうと思っていると、何やら上からレールの下を降りてきたものがある。重りである。なるほど、これなら強力なモーターでなくても運行できる。エレベーターと同じ原理だ! とするとケーブルカーではないのかも。現に、この形式の斜面エレベーター設備を備えたホテルを知っているぞ。
 
 法律のことはよくわからないから、これ以上の詮索はよそう。とにかく日本で最短の鉄道会社らしいので、それを尊重することにする。それの方が面白いし、功徳にもなる。エレベーターと違って、きちんと警笛も鳴らしていることだし(某ホテルでは警笛はなかった)。
多宝塔駅にて

 わずか2分ほどで多宝塔駅に到着する。そこには参拝を終えた10数人の人達が待っていた。ケーブルカーは彼らを乗せて、16時35分、慌ただしく下りていった。これが事実上の最終だったのである。
 私はこのあと扉を閉ざした、誰もいない本堂の前で手を合わせ、奥の院方面は夜間照明がなく天狗は出ないが熊が出ると注意書きがあったので、ひたすら急いでつづら折りを下った。
(2018/5/9乗車)

2017年12月22日金曜日

近江鉄道、車窓の景色が宝物!?


生きるか死ぬか

「車窓からの景観を奪われるのは許せない」と、かつて国鉄に楯突いた鉄道がある。明治29年創業の老舗、滋賀の近江鉄道だ。新幹線がすぐ脇の南側に建設されれば、日当たりは悪くなるし、ゆったりとした田園風景も失われる。それでなくても経営不振の近江鉄道にとって観光客離れにもなりかねず死活問題だと訴えたのである。オリンピックに間に合わせたい国鉄は、前代未聞の景観補償費を出すことで一応の決着がつくのだが、後に国会で大問題となった。親会社が西武鉄道であり、その社長が政治家でもある堤庚次郎だったということもあって、社会問題にまで発展した。今から50年前の話である。
 一体どんなところを走っているのだろう。生きるか死ぬかの景色にも出会ってみたい。ぜひとも訪れたい鉄道だった。

滋賀のローカル鉄道

 平成29年が終わりを告げようとする早朝、底冷えのする米原駅にやってきた。新幹線が停まり、東海道線と北陸線が分岐する重要な駅なのに、駅前には見事なほど何もない。コンビニすらないので、腹が空いているけれど、自動販売機の飲み物くらいしか口にするものがなかった。人々は乗り換えるためだけにこの駅を利用するのだろう。歴史的にも中山道と北国街道が分岐する有名な場所だが、北の長浜と西南の彦根という二つの城下町に挟まれた、ごく控えめな宿場町だったのである。今も昔も旅人が通り過ぎていくところだ。
 ガランとした駅前の一角に、これまた見落としそうな近江鉄道のホームがある。7時08分発の近江八幡行に乗るため、切符を買おうと思ったが、無人改札脇の自動販売機はまだシャッターが下りていて使えない。始発からすでに3本目、朝の通勤時間が間近なのに人影はまばらで切符すら買えなかった。
米原駅にて
そのものズバリ「赤電」のヘッドマ
ーク。車両の裾が鋭角にカットされ
ているのは、車両限界が小さめなの
で改造したものだという。    

 すぐにやってきた二両連結の電車は、かつて東京の郊外を走っていた西武の「赤電」だった。くすんだ赤とベージュのツートンカラーが懐かしい。定刻になると、わずか10人ほどを乗せて走り出す。

 出発して間もなく左側に一風変わった新幹線電車3両が見えてくる。ここは鉄道総合技術研究所の施設、米原風洞技術センターで、実験車両が保存展示されている。こちらの風洞実験施設では時速400㎞に相当する風力実験が可能ということで、3両の車両は鉄道史に残る走行実験を行ったものだ。JR東海の300Xは1996年に京都〜米原間で時速443㎞、JR東日本のSTAR21は1993年に燕三条付近で425㎞、JR西日本のWIN350は1992年に小郡〜新下関間で350.4㎞を叩き出し、いずれも今日の新幹線の礎となった。その輝かしい歴史の脇をローカル線がトコトコとのんびり走っている。
 次に右側に見えてくるのは、田圃の中にひときわ高く聳え立つ実験棟だ。FUJITECというエレベーター企業の主力工場のものだそうで、青い空に突き刺さるような白い塔が美しい。停車駅の名前もずばりフジテック前。ここでわずかばかりの乗客ほぼ全員が降りてしまった。やや早いとは言え、朝の通勤時間帯にガラガラの電車ではさぞかし経営も厳しいだろうなと心配になる。およそ10分で城下町彦根に到着する。
 米原・彦根間は、JRならば5分で運賃は190円。日中なら1時間に4本走っている。一方の近江鉄道は10分かかって運賃は310円、しかも日中は1時間に1本。まったく勝負にならない。よくぞ廃線にならないものだと感心する。彦根には本社と工場・電車区があり、近江鉄道の一大拠点だ。ここでロングシートが満席となりホッとする。

 この電車は近江八幡行だが、私は途中の高宮で乗り換えて多賀大社に参拝するつもりだ。日本の国土を産んだイザナギ・イザナミの命を祀る由緒正しき元別格官幣大社だ。門前町で朝食にもありつけるかもしれない。

 およそ9分で高宮に到着、ここで坐っていたほとんどの乗客が下車し、ホーム向かい側の多賀大社前行に乗り換える。高宮には近江八幡方面からの電車も到着していて、その乗客も乗り換えて来ているので、多賀大社行は吊革につかまる人もいるほどの盛況ぶりだ。
 ローカル線を旅していると、朝のこの時間帯は大方女子高生で満員になることが多い。勿論世の中男女の人数はほぼ同数のはずだが、かしましい元気印の女子高生の前では草食男子はスマホの画面に逃げるしかなく、著しく存在感に欠けるので、女子高生ばかりが目立つのだが、多賀大社行は圧倒的におじさん軍団で占められていた。華やぎは一切なく、これから一日の仕事が始まるのだという、何となく重苦しい雰囲気が漂う。
 おじさん軍団は、次のスクリーン駅で下りるようだ。ここもまた企業名がそのまま駅名となったものだ。ワンマンカーのため、運転席横のドアまで延々と人が並び、次々と降りて、そのまま工場の中に吸い込まれていった。次の終点多賀大社前まで乗車したのはわずか数名であった。
真っ白な霜が朝日に輝き、荘厳な
佇まいの多賀大社。      


 多賀大社への参拝を終えて、一旦高宮まで戻る。高宮では近江本線の電車が交換し、そのタイミングに合わせて多賀線も運行されているために、三方面からの電車が集合離散する。

 ここでの乗り換えはちょっとした見ものだ。本線のホームは対面式で跨線橋はなく中央に踏切が設けてあって、利用客は線路を横断して移動する。電車はそれぞれ踏切の手前で停まるので、遮断機は下りたままだ。このままでは本線上りと多賀線との間で乗り換えができない。果たしてどうするのかと眺めていると、あろうことか乗り換え客は遮断機の下を潜って移動している。駅員も、運転手も、地元の乗客も馴れたもので、皆当たり前のように事は進んでいく。豪快というか、おおらかというか、とにかくローカルな私鉄である。
高宮駅に本線上り彦根行が入って
きた。伊藤園のラッピングカー、
先頭が「おーいお茶 濃い茶」後
ろが「緑茶」。車両の前の遮断機
が下がっている点に注目! この
棒を押し上げて線路を横切り乗り
換える。           

 近江鉄道は運賃が高いと記したが、実は安いフリー切符も売られていた。金曜日を含む週末限定販売の「1デイ・スマイルチケット」だ。一日乗り放題で破格の880円、確かに笑顔が浮かぶ。高宮駅の駅員さんが教えてくれて、直ちに購入する。
 米原駅でも買えるそうだが、窓口が開いている時間のみ販売ということで、結局この日普通に買ったら2630円かかるところを1400円で済んだ。米原駅の窓口が開いていれば、米原・多賀大社間の520円も節約できたのだが、まあそこはこの鉄道への支援金ということ納得。お金の話は品がないのでこれ以上避けたいところだけれど、それにしても差があり過ぎで、ちょこっと乗るだけの地元の人が可愛そうな感じがした。

タイル壁画の物語

 高宮を出てしばらくすると、前方に新幹線が立ち塞がってくる。この先、尼子・豊郷・愛知川の三駅を含むおよそ8㎞が新幹線併走区間だ。盛り土区間なので確かに左側の景色はまったく見えず、ひたすら日陰を走る。頭上を頻繁に重低音を響かせて新幹線が行き来する。右側だけを見れば、のんびりとした冬の田圃の景色が広がっている。「生きるか死ぬかの風景」論争が、かつてこの場所をめぐって繰り広げられたのだが、鈍感な私にはまったくピンと来ない。ごく普通の田園風景のように思えた。

 新幹線と分かれ、暖かい日差しが戻り、八日市に着く。ここからは八日市線が分岐している。八日市線は商都近江八幡とを結ぶ最重要路線で、日中は他路線の倍の本数の電車が走っている。とはいっても、1時間に2本なのだが。
 吹き抜けとなった大きな三角屋根の駅舎から出て、駅前広場を歩いてみる。なかなか立派な駅前である。その駅舎のちょうど正面中央に大きなタイル壁画があった。古代の装束を身にまとった男と女が描かれている。その由来を読んでなるほどと思った。ここはかつての蒲生野だったのだ。
 高校の古典教科書に登場し、里中満智子の漫画『天上の虹 持統天皇物語』にも取り上げられている、額田王と元カレ大海人皇子のラブストーリーの舞台である。古典というとちょっと敷居は高いが、内容はワイドショウーや週刊誌ネタになるようなアブナイ「不倫」物語である。

 天智天皇の妻となっていた額田王が、天智天皇の弟であり元カレの大海人皇子から求愛される場面を万葉集は次のように記している(訳は気にせず、眺めるだけでよし)。
 
    天皇の、蒲生野(かまふの)に遊猟(みかり)したまひし
    時に、額田王の作れる歌

  あかねさす紫野(むらさきの)行き標野(しめの)行き
  野守(のもり)は見ずや君が袖振る

    皇太子の答へませる御歌〔明日香宮に天の下知らしめしし
    天皇、謚(おくりな)して天武天皇にといふ〕

  紫草のにほへるいもを憎くあらば
  人妻ゆゑに われ恋ひめやも

 白村江の戦いで唐と新羅に敗れた日本は、敵襲を恐れて都を海から遠い大津に移していた。天智天皇は大津京からほど近い蒲生野に狩りに出かけたのだが、その一行の中に額田王と大海人皇子がいた。額田王がひとり佇んでいると、そこに別れた前の夫がいて袖を振っている。当時の人たちにとって、それは求愛のしぐさだった。野の番人に見られたら大変とばかりに元妻はたしなめる歌を贈る。
 すると大海人皇子は、美しいおまえを憎いと思うならば、どうして今は兄の妻だからといって、恋い慕うことがあるものかと、返歌を贈ったのでる。否定的な仮定法と反語が用いられているので、古文嫌いにはわかりにくいかもしれないが、要するに、今は私のもとを離れて(兄に奪われて)兄嫁となってしまったおまえだけれど、とても憎いとは思えず恋しいのだと訴えた、というお話。

 この歌は天智天皇もいる宴席で歌われた戯れ歌らしいのだが(大人同士って怖いなあ。ニコニコした顔しながら神経戦を繰り広げている)、のちに壬申の乱を起こし、天智天皇側を打ち負かした大海人皇子のことを知る後世の者にとってみれば、大らかな時代であったとばかりはとても思えず、歴史の奥底を垣間見る思いがするものだ。そこを綺麗に歌い上げるからこそ、文学でもあるのだが。

景色から感じ取れるもの
蒲生野を走る貴生川行き電車の
後方車窓。右が鈴鹿山脈。  

 その蒲生野を走る鉄道こそ、近江鉄道だった。そう思うと、不思議に景色も違って見えてくる。冬枯れの田園風景はかつては蒲の生い茂る湿地だったのだろう。天智天皇はカモを狩りにやって来たのかもしれない。ところどころに点在する雑木林は男女の密会の場にうってつけだ。額田王はそれを見て想像を逞しくし、意味深長な歌を披露した。思いを断ち切れない元彼は敏感に反応する。全てを手に入れた天皇は豪快に笑った。のちに壬申の乱・・・おお、怖っ!

 野原の向こうには、鈴鹿山脈が連なっている。雪を頂いてひときわ輝く山は、御在所岳に違いない。山脈を越えれば三重県湯の山温泉であり、四月に近鉄全線走破の際に訪れた。あの時とは違う季節の雪が積もっている。
 視線を車窓反対側に転ずれば、琵琶湖方面に山脈が連なり、こちらも雪を頂いている。方角から見て、比叡山より北に位置する比良山地のようだ。こちらは古来、近江八景のひとつに数えられている景勝地だが、蒲生野はそれらすべてを借景にして、おだやかな陽だまりの中にあった。

 生きるか死ぬかの風景かどうかはともかくも、この特別絶景でもない風景と新幹線や高速道路のような近代的景観が馴染むとはとても思えない。今を生きる我々にとって、新しい交通機関はなくてはならないものだが、そのために誰も見たことがないものを受け入れなければならなかった現地の人々にとっては、戸惑い以外のなにものでもなかったのだろう。時が経てば、あれだけ大騒ぎしたこと自体が忘れ去れていく。それでいいのだと思う。
 電車は終点貴生川に近づく。貴生川は忍者の里で有名な甲賀の地である。近江鉄道はここまでだが、貴生川から先は信楽高原鉄道が続いている。高原鉄道とはいっても、信楽高原があるわけではないが、貴生川と信楽の間の峠越えは見晴らしが良く、そこからは蒲生野が眼下に広がっている。それを見てすべてを納得した気になり、安心すると、急に空腹が身に沁みてきた。
(2017/12/22乗車)

2017年12月20日水曜日

明治の鉄道遺産めぐり

日本初の市電に乗る

 鉄道好きにとって愛知県犬山の明治村は見逃すことのできないユニークな博物館だ。明治時代の鉄道建造物だけでなく、園内をめぐる乗り物そのものが動く鉄道遺産だからだ。
品川燈台駅にて

 名古屋大学の前身、旧第八高等学校から移築された正門を入って長い坂を下ると、そこは市電京都七条駅。タイミングが合えばチンチンと鐘を鳴らして路面電車が通り過ぎる。仮にここで出会えなくても気にせず先を急ごう。目指すは品川燈台、京都市電の始発駅である。

 明治村は日本の「ため池百選」に選ばれた入鹿池に面し、広大な園内には70近くの歴史的建造物が点在する。歩いて回るのも楽しいが、とにかく広いので乗り物を上手に利用するとなおさら面白みが増す。まずは見晴らしのよい南東の端にある品川燈台から鉄道を乗り継いで、北の外れのSL東京駅を目指すのがおすすめだ。

 京都市電(当時は京都電気鉄道)は日本で最初の営業用電気鉄道である。日本で初めて電車が走ったのは明治23年東京上野で開かれた第四回内国勧業博覧会の会場だったが、東京市内は馬車鉄道のままであり、営業用としては明治28年の京都市電に栄誉を譲る。日本で最初に水力発電を行った蹴上発電所から電力を受けていたことでも有名だ。明治村では明治43年製の電車が走っている。
ダブルルーフには明かり取りの窓
がよく似合う。すりガラスにはお
しゃれな模様が。       

 茶とクリームのツートンカラーに、時代を感じさせるダブルルーフ。その上にはポールと呼ばれる竿の先に滑車の付いた集電器が載り、運転台は吹きさらしだ。車体の前後には万が一横切る通行人がいた場合、命を守るための救助網がついている。車輪は2軸4輪が無骨な板バネに支えられている。4輪というとまるで自動車のようだが、鉄道好きには最近見かけなくなった貨車のように見える。ただしモーターが付いているので、詳しい話は省略するが、レールに接した車輪とモーターが密着しているので振動が激しく、うなるような大きな音をたてて、ゆっくりと進んでいく。速度が出ない上に、ブレーキの効きがよくないので止まるのも大変だ。警報のチンチンという鐘の音を鳴らしながら、シューシューと制動をかけながら減速する。金糸で装飾された威厳のある制服を着た運転手さんが、神経を集中させてマスコンとブレーキを操っている。熟練した技だ。動態保存だからこそ味わえる音と振動が、五感を通して昔の市電を感じさせてくれる。
市電京都七条駅にて

 品川燈台から京都七条までは入鹿池の湖畔をめぐるルートで眺めがよい。京都七条周辺は最も人通りの多いメインストリートを横切るため路面電車の趣が漂っている。実際の京都市電は発足当時事故が絶えなかったので、安全のために信号人や告知人と呼ばれる先走りの少年がいた。明治村では、踏切などない時代を模して、メインストリートに告知人の中年男性を配して安全を呼びかけている。
カーブを曲がれば終点は近い。

 京都七条から終点市電名古屋駅までは、谷間にある第四高等学校の武道場「無声堂」を見下ろすように山林の中を進んでいく。オメガカーブとも呼ばれる大きな迂回路だ。本来路面電車だったので、このような場所は通らなかったはずだが、明治の電車に雑木林は一幅の絵になるほど相性が良い。市電名古屋駅で下車し、少し登ったところにSL名古屋駅はある。


陸蒸気と明治村の繋がり
SL名古屋駅に到着する12号機関車

  新橋・横浜間に鉄道が開業したのは1872(明治5)年。日本にはまだ大学がなく、廃刀令や西南戦争もこの後のことで、碌な道路もない時代に産業革命の申し子だった汽車が走るというのも不思議に思えるかもしれないが、悪路だからこそ鉄のレールを敷けば走れたのだと考えれば、道路よりも鉄道が発達したことがうなずける。
 開業から2年目にイギリスから輸入された陸蒸気が、146年経った今も元気に明治村で走っている。シャープ・スチュアート社製の12号機関車は動輪が二軸で炭水車を牽引しないBタンクと呼ばれるタイプだ。後ろに繋がれている客車は、当時のものではなく、青梅や新宮から持ち運ばれたものだが、すっかり周囲に溶け込んで違和感がない。
向きを変えて機周り線をゆく。

 SL名古屋駅に到着すると、すぐに機関車は客車から切り離されて、ホームの先に設置された転車台へと向かう。そこで機関士と機関助手が力を合わせてターンテーブルを回し、向きの変わった機関車は機周り線を通って客車に繋がれるのである。この間の作業が面白く、乗客たちは食い入るように見つめている。
 汽笛の合図とともに出発。重い客車を牽引するため、ゆっくりとした加速で進んでいく光景は、蒸気機関車ならではの趣きだ。せっかちな現代人も、ゆったりとした時間の経過に酔いしれる。途中駅はなく、菊の世酒蔵の巨大な建物の脇を通り過ぎると、有名な帝国ホテル中央玄関が見えてくる。フランク・ロイド・ライト設計の建物は、明治村の一番奥でひときわ偉容を誇っている。赤い鉄橋を渡れば、そこはSL東京駅である。
SLは30分から1時間に1本運行され
ている。           

 東京駅に隣接して、転車台と機関庫が設置されている。東京駅のホームからは石炭庫や給水施設が見える。ここでも機関士による人力の転車シーンが楽しめる。走行距離こそ短いが、明治村の鉄道施設はすべて本格的なものだ。名古屋鉄道に関係深いだけのことはある。
 12号機関車は東海道線で働いたあと、明治の終わりには名古屋鉄道の前身の一つ尾西鉄道に払い下げられた。その際に国鉄時代は165号機関車だったのが現在の12号に改められたのだという。だから陸蒸気であっても、12号には特別な思い入れがあるのだろう。
尾西鉄道1号機関車と六郷川鉄橋

 明治村と尾西鉄道・陸蒸気の関わりは他にもあって、尾西の1号機関車が静態保存ながらも展示されている。しかも、それは1878(明治10)年に架けられた、陸蒸気が行き来する六郷川鉄橋の上になのだから、ますます凝った展示といえよう。この鉄橋は、六郷川での役目を終えた後、御殿場線に移設され、最後に明治村で余生を送っているものだ。
(2017/12/20乗車)

2017年9月8日金曜日

木曽谷の森林鉄道


森林浴鉄道

 木曽の檜(ヒノキ)は、青森ヒバ・秋田スギと共に日本三大美林のひとつに数えられる。そしてここ赤沢自然休養林は、日本の森林浴発祥の地でもある。美林の中を散策すると、樹木が発散するフォトンチッドによって免疫力が向上するし、その香りによって心はリラックスする。ストレスに痛めつけられた現代人にとって、ここは癒しの場そのものだ。
アメリカ製蒸気機関車
ボールドウイン号(1916年〜1960年)
残念ながら静態保存

 高度経済成長期、伐採された樹木を運搬するための森林鉄道が日本中に造られ、木曽地方だけでも総延長500㎞に及ぶレールが敷かれた。線路幅がわずか762㎜しかない簡易鉄道である。それが今でもわずか1.1㎞だけ残されている。というよりも、1975(昭和57)年に一旦は全廃されたものの、1987(昭和62)年に自然休養林内の施設として復活した。であるから、赤沢森林鉄道は東京ディズニーリゾートのウェスタン鉄道と同じように正式な鉄道ではなのだが、だからといって作り物ではなく、日本遺産にも指定された歴史的建造物なのだ。
檜の大木の下、
赤沢の渓流を行く
森林鉄道

 森林鉄道記念館が併設された乗り場から、丸山渡(まるやまと)停車場まで、列車は赤沢の渓流に沿ってコトコトと走る。わずか7〜8分で着いてしまう短い旅だが、あたりには樹齢300年に及ぶ檜の自然木や、伊勢神宮の式年遷宮のために植林された檜などが生い茂り、途中には沢に架けられた二つの木製の橋を渡るなど、変化に富んだ風景が広がる。屋根だけが付いた吹きさらしのトロッコ客車に揺られているだけで、森林アロマセラピーができてしまうという贅沢な乗り物だ。
 渓流の沿って整備された「ふれあいの道」を散策する人達も、1時間に1本の森林鉄道が通るのが楽しみのようで、笑顔で手を振ってくれる。つられてこちらも年甲斐もなく手を振ってしまう頃には、すでに心も癒されている。
機回し線を戻ってくる機関車。
環境に配慮して煙の出ない
ディーゼル機関車を新造した

 丸山渡停車場で降りて、そこからはいくつもある散策コースを歩いて出発地点まで戻る人も多い。機関車を付け替える5分ほどの間、森林鉄道の前で記念撮影したり、せせらぎまで下りて一息入れるだけの人もいる。中には復路も森林鉄道を利用し、列車に乗ったまま森林浴を済ませてしまう人もいる。

 森林鉄道は麓に木材を運ぶことが目的だから、上流に向かう際は機関車はバック運転、荷を満載して下流に向かう際は前進運転となる。バック運転の場合、機関士は身体を捩って後ろを振り返るような格好で運転操作を行う。長時間運転の際は、さぞや苦しいことだろうと思う。

オープンな客車に坐っていると、
アロマの風が頬を流れて快い  

 この地はもともとは皇室の御料林だったこともあって、ひときわ大切に保護されてきた。森林鉄道記念館には、今上天皇が皇太子時代に訪れた際に乗車された貴賓車が残っている。小さな客車の中には、白いカバーの掛かった椅子が置かれていたが、決して豪華なものではない。
あすなろ橋を渡れば終点は近い

 また理髪車と呼ばれる特殊車両が展示されていて、山間で不自由な生活する人々のために、散髪のための施設が各所を回ったと説明がある。森林鉄道はそこで暮らす人々には欠かすことの出来ないものだったことが窺い知れる。しかしながら、あくまでも木材運搬が目的であって、人間様は二の次だ。1961(昭和36)年に上松運輸営林署が布告した掲示には「便乗中万一災害が発生した場合に於いても営林署は民法及国家賠償法に基づく損害賠償の責任は負いません」とあり、あくまでも自己責任で乗車せよと、今では考えられないようなことが書かれている。昨今の消費者(乗客)に過保護な姿勢も如何なものかと思うが、これはこれでまた凄い。日本人は真面目で、どこまでも極端なんだなあと思ってしまう。
(2017/9/8乗車)

 注)駅や車内で繰り返される録音放送は、列車の接近に始まり、行き先や停車駅、更には接近すれば注意を促す。時には録音を遮って、駅員が生で語りかけて来ることもある。実にうるさいし、そもそも客を弱者扱いし過ぎだ。事故が起これば、鉄道会社の安全配慮義務を問われるから、その対策なのだろうけれど。

【赤沢自然休養林への行き方】
中央線上松(あげまつ)あるいは木曽福島までは、名古屋から特急しなので1時間25分。そこから先は専用バス(1日3〜5往復)で、上松からは30分、木曽福島からは45分。

2017年8月23日水曜日

山岳鉄道の魅力あふれる肥薩線


絶景路線、誕生の秘話

 日本山岳鉄道の白眉といえば、肥薩線を措いて他にないだろう。熊本や宮崎・鹿児島に住む方々には申し訳ないが、あのような田舎だからこそ都会人にはあまり知られていないだけであって、仮に肥薩線が関東地方にあったとしたら、怒濤のように観光客が訪れて、あっという間に俗化されてしまっていたに違いない。レンゲは野に咲いていてこそ美しい。肥薩線もいつまでも南九州の山中で、ひっそりと息づいていて欲しいものだ。

 熊本から特急で1時間半、途中急流と焼酎で有名な球磨川を遡り、山塊を抜ければ「日本でもっとも豊かな隠れ里」人吉に着く。九州山地に囲まれた球磨盆地に位置する、温泉の湧き出る小さな城下町だ。ここに至るまでの蛇行した深い渓谷もなかなか見どころが多いけれど、そちらの方はSL人吉号でのんびりと楽しむのが良いだろう。今回の目的地はここより更に奥にある。

 それにしても、明治の人達はなにゆえこのような隠れ里に鉄道を敷いたのか。熊本・鹿児島間が鉄道で結ばれたのは、1909(明治42)年11月のことだ。この時、途中関門海峡を連絡船で乗り継いで、青森から鹿児島が鉄道で結ばれた。工事に着手した1905(明治38)年は日露戦争の真っ直中であり、その年の5月27日に日本海海戦が起こるという時代だったから、敵の艦砲射撃を怖れたのも当然のことだろう、国防上の理由から鉄道を山中に通すことにしたのである。現在肥薩線と呼ばれているこのローカル線は、かつての鹿児島本線そのものであり、当時は大動脈だったのである。
 坂の苦手な蒸気機関車の前に立ち塞がる山々、しかも行き来の多い動脈。いつの時代も壁にぶち当たれば、人は技術で乗り越えようとする。矢岳越えの始まりだ。

   注)2015(平成27)年、文化庁が日本遺産に認定。

大畑ループとスイッチバック


(C)Yahoo Japan,(C)ZENRIN

 人吉を後にした列車はディーゼルエンジンを唸らせながらぐいぐいと登っていく。あたりは鬱蒼とした緑で、坂に弱い蒸気機関車泣かせの1000分の25という急勾配だ。やがてループ線が始まるとすぐに現れる横平トンネルの先には、全国でもここにしかない、ループの中のスイッチバック駅、大畑駅がある。大畑は「おこば」と読む。「こば」とはこの地方では焼き畑のことを指すので、それが地名になったようだ。
大畑駅からスイッチバックを眺め
る。左側が人吉方面。画面中段、右
側に向かってループ線の勾配が続い
ていて、正面の山の窪んだところま
で登っていく。         

 それはさておき、誰も住んでいないような所に駅が作られたのは、ここで石炭を補給し、給水する必要があったためである。人吉から大畑まで登るのに約1トンもの石炭が消費されたのだという。
 重量のある蒸気機関車を安全に停車させるには、駅を水平な場所に作らなければならない。であるから、列車は勾配のあるループから一旦はずれ、水平なところに設置された大畑駅に滑り込む。
 石炭を積み給水を終えた蒸気機関車はループ線に戻るためにバックをする必要がある。しかし、そのまま下り勾配のループ線に戻るわけにはいかない。重たい機関車には坂道発進など不可能だからだ。そこでループ内側に水平に設けられた引き込み線に一旦入ってから、平らなところで加速しつつ、再びループ線を登るようになっていた。

 登坂能力に優れた現在のディーゼルカーならば、大畑駅に停車しなくても、そのままループを登れそうである。地図を見ても、ループは連続しているようだから、敢えて大畑駅に立ち寄る必要はなさそうに思えるかもしれない。ところが実際にはループは連続しておらず、大畑駅でジグザグと切り返しながら通過する必要がある。この何とも非効率なところが、肥薩線の魅力でもあるのだ。
大畑駅停車中の観光列車

 現在大畑駅を通過する列車は1日わずか5往復。そのうちの2往復は観光列車である。人吉・吉松間35㎞、普通列車では1時間のところを、途中休み休み20分ほど余計に時間をかけて結んでいる。大畑駅では、バックするために運転手が移動する間、乗客達はホームに出てレトロなローカル駅を見学して楽しむことができる。駅舎にはここを訪れた人達が記念に残した名刺やメモ用紙の数々が所狭しと貼られている。まるで千社札のようだ。駅構内の片隅には、給水塔が残っていて、SL時代を偲ばせる。

 大畑駅を出発した列車は、ループ内側の引き込み線に入ってから一旦停止し、運転手が車内を再び移動する。これが一大セレモニーとなっていて、キャビンアテンダントの女性が、実況中継をしてくれる。心なしか運転手も得意顔である。
 
 運転を再開すると、引き込み線内で加速し、そのまま半径300㍍のループ線へと進んでいく。車窓右側に大畑駅を見送り、短いトンネルを抜けると木立の間から球磨盆地と九州山地が見えてくる。中でも一番高い山が市房山(1721㍍)で、九州で3番目に高い山だ。ちなみに阿蘇や霧島は名山の誉れ高いものの、標高ではこれより低い。
中央が大畑駅、右下が引き込み線。
人吉からの線路は、引き込み線の  
向こう側に微かに見え、撮影地点の
下をトンネルで抜けていく。   

 ループをほぼ1周した地点で左側車窓の視界が大きく開ける。ここが肥薩線最初の絶景ポイントだ。眼下に先程立ち寄った大畑駅と引き込み線が見える。その向こう側に広がるのが球磨盆地と九州山地である。
 全国にはループ線がいくつか残されているが、景色のよさからすれば、ここが群を抜いている。スイッチバックの面白さもさることながら、その下に広がる球磨盆地が背景となって、山岳鉄道の趣がもっとも味わえるからである。観光列車の良いのは、このようなビューポイントできちんと停まってくれ、しかも解説してくれるところだ。37年前に訪れた時には、左右の車窓をキョロキョロしているうちに通過してしまい、不覚にも絶景を拝むことは叶わなかった。他の乗客の中で外の景色を眺めている人は殆どおらず、スイッチバックの記憶しか残っていない。「何事にも先達はあらまほしきものなり」であって、誰かに解説してもらうということはとても有り難いものだ。

   注)徒然草より。二度と訪れないかもしれない土地で、誰からの
        アドバイスも受けずに、大切なものを見はぐってしまうこと
                       ほど残念なことはない。なお原文はもっと意味が深い。
          
山縣伊三郎と後藤新平
 
 ループ線を抜けてから先も矢岳駅までの間は、1000分の30.3という蒸気機関車にとってはほぼ限界に近い区間が9㎞も続く。今回乗車している観光列車「いさぶろう号」は、キハ47という国鉄時代に普通列車用だった車両を、「ななつ星」を初めとするインダストリアルデザインで世界的にも有名な水戸岡鋭治氏によってリニューアルされた名車が使われている。ただエンジンは国鉄時代のレトロなもの。頑丈で重量のある車体を非力なエンジンで動かしている老兵のような車両だ。見かけはお洒落な若作りだが足腰が弱い。
 大きなうなりをあげつつ、ゆっくりとしか登坂できないこの列車が、かえって逆に難所を走る観光列車には相応しく思えてくる。都市の電車区間では1000分の30など至る所にあるが、産業遺産を体感するとは、こういうものなのだろう。
古い佇まいを残す矢岳駅

 肥薩線の標高最高地点は、矢岳駅の537㍍である。人吉が107㍍、大畑が294㍍だから随分と登って来たものだが、高度そのものはそれほど高いものではない。問題となるのはあくまでも標高差である。駅周辺には田畑と農家が点在している。昔ながらの駅舎に隣接した展示館では、往時貨物列車を始めとして多くの列車を牽引したD51型蒸気機関車を見ることができる。

 肥薩線の観光列車は、人吉から吉松方面の下りが「いさぶろう号」、逆の上りが「しんぺい号」という。あえて列車名を変えているのは、この先の矢岳第1トンネルの入口に掲げられた扁額に関わりがある。熊本県と宮崎県の境に位置するこのトンネルは、全長2096㍍の肥薩線最長のトンネルであり、難工事のすえ貫通し、鹿児島本線は全線で開通することができた。この慶事を祝して、熊本県側の入口に逓信大臣山縣伊三郎が「天険若夷」と、宮崎県側に鉄道院総裁後藤新平が「引重致遠」と揮毫したので、それにちなんで吉松行きは「いさぶろう号」、人吉行きは「しんぺい号」と命名したのだ。なんとも気の利いた列車名ではないか。こういうセンスがJR九州にはある。
 ところでこの難解な四字熟語の意味はというと、車内で配られたパンフレットによれば「天険若夷」が<天下の難所を平地のようにした>であり、「引重致遠」は<重いものを遠くに運べる>だそうだ。若夷は夷(い)の若(ごと)しと訓むのだろう。夷には、えびす(未開の異邦人)のほかに、平らげるの意味がある。鹿児島本線としての開通が、如何に当時の物流にとって重要で、人々の期待を担っていたかがわかるエピソードだ。

日本三大車窓 霧島連山の絶景

 土木工事がまだ未熟だった明治時代には、トンネルをどれだけ短くできるかが勝負所だった。現在ならば麓同士を長大トンネル一本で抜けてしまうようなところを、短いトンネルとスイッチバックとループ線で高度を稼ぎ、これ以上無理という所にトンネルを設けて山越えを果たした。それが矢岳越えだったわけだが、これはただ単に土木技術の問題だっただけではなく、蒸気機関車にとって長大トンネルは無理だったことも考え合わせねばならないだろう。昨今のSLは無煙炭や重油を燃やして極力煙害を防いでいるし、そもそも客車の気密性が高く、乗客が煙に悩まされることはまずない。
 電化以前の時代にあって、蒸気機関車がどれほどまでに嫌われていたかを知る人はすでにだいぶ少なくなった。汽車の旅は、それはもう難行苦行の連続であり、特にトンネルは最悪で、窓を閉めてもデッキから煙が流れ込んできて息苦しいこと限りなかった。夏、冷房もない頃に窓を全開にしておくと、煤や石炭殻が飛び込んでくる。私も幼い頃、車窓を眺めていると目の中に石炭殻が入ってしまい、涙では流れ落ちずに、目医者に洗い落として貰ったことがある。だから汚くて厄介な蒸気機関車などにはこれっぽっちも興味がなかった。蒸気機関車が再発見され、広く世間に人気が高まったのは、全国から姿を消した後になってからである。
 矢岳第1トンネルに入った時、当時の人がどんな思いで乗っていたか。ここは想像力を働かせれば、容易に察しがつくだろう。もう二度とこんな汽車には乗りたくないという人もいたに違いない。外は漆黒の闇、薄暗い車内に漂う煤煙。暖かい煙は車内の上ほど濃いが、次第に下に降りてきて、後方へと流れていく。匂いもきつく、窒息しそうな2㎞。
右が飯盛山(846m)、中央やや左が
韓国岳(1700m)、その左雲を被っ
た白鳥山(1363m)。高千穂の峰は
後方で見えていない。      

 トンネルを抜けた瞬間、あちらこちらで窓が開け放たれ、新鮮な外気を胸一杯に吸って人々は安堵する。そこに俄に視界が開けて、雄大な霧島連山が眼前に迫ってくるのだ。この風景は今見ても感動的だが、SL時代では尚更だったろう。目的地まではあと下るだけだ。
 標高1700㍍の韓国岳(からくにだけ)を主峰に、右に飯盛山、その後ろに周辺に黄緑色のえびの高原、左には白鳥山や夷盛山(ひなもりやま)が連なる。眼下は川内川流域に加久藤盆地(えびの盆地とも)が広がる胸のすくような景観だ。日本三大車窓を謳うのも頷ける。観光列車「いさぶろう号」はここでも数分停車し、キャビンアテンダントからはご丁寧にも窓を開けて外の空気を吸うよう薦められる。勿論高原の空気を満喫して欲しいという意図なのだろうが、過去を知る者には、汽車時代の苦労が偲ばれる小粋なアドバイスに思えて仕方なかった。
 日本三大車窓とは、ここ以外は信州姨捨と北海道狩勝峠だ。どこも素晴らしいが、信州の姨捨の前に広がる善光寺平は人々が多く住む開けた土地柄だし、北海道の狩勝峠は長い新トンネルが出来てからは標高が下がったこともあって、一番は昔と変わらないこの車窓であろう。ただどの車窓にせよ、蒸気機関車時代の苦労を想像しながら眺めると、感動もひとしおに違いない。なお、老婆心ながら、ここを訪れる際は「しんぺい号」ではなく、「いさぶろう号」をお薦めする。その理由はもうおわかりであろう。姨捨や狩勝峠の場合も同様である。
微かに見える桜島のシルエット

 パンフレットには天気がよければ桜島も見えると書いてある。確かに…うっすらとシルエットが浮かんでいる。キャビンアテンダントが「皆さんは幸運です」という。自分は雨男なので、ここで運を使い果たさなければよいのだがと思うが、これだけ綺麗だったのだから、まぁ、いいか。

鉄道遺産としての肥薩線 


承前 山岳鉄道の最高峰

 矢岳越えを終えた「いさぶろう号」は、軽やかなエンジン音を響かせながら加久藤盆地、別名えびの盆地へと下っていく。ここは日向の国、宮崎県だ。肥薩線はその名の通り肥後熊本と薩摩鹿児島を結ぶ路線なのだが、ほんの少しだけ日向の国の西端をかすり、そこに位置するのが真幸(まさき)である。勾配の途中にある真幸駅もまた、素通り不能のスイッチバック駅だ。ここでも列車は一旦車止め手前で停車し、運転手の移動後に、真幸駅へ向けて逆進する。
列車は真幸駅の脇を通過してから
バックしつつ駅に停車する。  

 なんとここに待ち受けていたのは、地元の人達の歓迎であった。十数人の人達が、幟をを持ち、手を振って出迎えてくれる。アテンダントの説明によれば、地元の特産品やお弁当なども販売しているとのこと。また、ホームには「真幸の鐘」があり、それを衝く幸せになれるという。あの手この手で町おこしなのだなと思うものの、ここまで多くの人が集まって歓迎してくれるのも珍しい。

 真幸から吉松は近い。盆地を囲む山々の斜面を滑り降りながら、日向と別れて薩摩に入るが、むろん景色が変わるわけではない。地図を見ながら列車に乗っているから分かるだけであって、ほかの乗客の人達は一瞬宮崎県に入ったことなど、知りもしないし関心もないだろう。オタクとは言われたくないが、言われても仕方ない。
『赤と黒』
スタンダールじゃないけれど…

 「いさぶろう号」は吉松が終点である。乗客の多くは、ホーム向かい側で待つシックな黒い特急「はやての風号」に乗り換えて、そのまま鹿児島へ向かう。こちらも水戸岡鋭治氏のデザインによるリニューアル車で、窓からはふんだんに木を用いた雰囲気のある車内が見える。思わず乗りたくなるが、ここは我慢。
都城からの吉都線列車
前方左が人吉方面

 吉松は吉都線の乗り換え駅で、都城を経由して宮崎に繋がる交通の要衝である。かつては熊本と宮崎を結ぶ急行「えびの」が走っていたが、今は需要がないため、吉都線は完全にローカル線化している。肥薩線からは見えなかった天孫降臨神話で名高い高千穂峰も、吉都線からはよくみえるので、霧島連山すべてを眺めるなら、この景勝路線がお薦めだ。そのためJR九州では、肥薩線と吉都線を併せて「えびの高原線」という愛称をつけているくらいだ。熊本県民にはピンと来ないだろうけれど。

遺産
近代化産業遺産【石倉】

 交通の要衝だっただけに、吉松駅には鉄道遺産が残されている。その一つが、2009(平成21)年に近代化産業遺産に認定された石倉だ。肥薩線(旧鹿児島本線)が全通する前の1903(明治36)年に作られた燃料庫で、石造りの鉄総施設としては珍しいという。たしかに全国各地に残るランプ小屋は煉瓦造りだ。電気のなかった時代、ランプの灯りだけが頼りだっただけに、当時を記憶に残す貴重な施設といえる。

 いまでこそ吉松は静かなローカル駅だが、最盛期には機関区・保線区が置かれ、鉄道の町として600人以上の鉄道員が所属するこの地域の拠点であった。その面影がそこかしこに残されていて、駅周辺には蒸気機関車C55なども静態保存されている。この機関車の動輪は、スポーク型の美しいタイプだ。

 肥薩線の旅を終えるに当たって、最後に触れておきたい駅がある。嘉例川である。テレビで紹介されることもあって、比較的多くの人に知れ渡るところとなった。
嘉例川駅舎

 木造平屋切妻造の駅舎は、吉松の石倉と同じ1903(明治36)年、国分(現隼人)から吉松まで旧鹿児島本線が開通した際に建てられたもので、ほぼ当時の原形を保ったまま残っている。お椀を伏せたような緑濃い小山の脇に、ちょこんと建った田舎の駅舎を見ていると、まるでタイムスリップしたかのように、時代を忘れ、刻む時を忘れてしまう。薄暗い待合室には三和土の上に木製のベンチ。その隣は駅員の居なくなった事務室。ホームとの間には木製の改札口。駅舎の脇には樹齢100年を越える大きく育った木。
嘉例川駅と都城行普通列車


 有名になったこともあって、観光客が少なからず訪れる。その多くはマイカーでやって来る。私を乗せた列車が嘉例川に着いた時には、すでに駅前に何台も車が停まって、見学者が数多くいた。静かな田舎駅を想像していただけに少し意外だったが、列車が行ってしまい、しばらくするうちに、さあっと水が引くように人がいなくなってしまった。一緒に降りた高校生達も家族の出迎えの車で行ってしまい、次の列車を待つ私一人だけが残された。

 2006(平成18)年、嘉例川駅舎は国によって登録有形文化財に指定された。「日本でもっとも豊かな隠れ里」という日本遺産に始まり、絶景と数多くの産業遺産に恵まれた肥薩線。地元では現在、世界遺産に登録しようと運動を始めている。
(2017/8/23乗車)

 




世界で一番すてきな通学列車


ローカル線と高校生

 全国のローカル線を最も利用しているのは高校生に違いない。各駅停車の旅を続けていると、朝夕はほぼ必ず通学や帰宅途中の高校生と一緒になる。社会人はマイカー通勤が多いのだろうか、高校生に比べると人数は少ない。高校生の場合は、仮に家から駅が遠い場合も、駅までは車で送ってもらい、その先は通学列車を利用する。
 ローカル線には昔ながらの古い車両が使われることが多く、ボックスシートと呼ばれる4人が向かい合わせに坐るタイプがほとんどだ。外の景色を楽しむ旅人には重宝な座席だが、4人席を一人で占めてしまう場合が多い。特に高校生は見知らぬ人と同席などしないので、仲間同士が出入り口近くに溜まることになる。中はスカスカ、両脇は大混雑という風景が繰り広げられる。こうしてみると、4人ボックスシートが次々に廃止され、景色を楽しめないロングシートが幅を利かせてきているのも分からなくはない。せめて、2人掛けのクロスシートにして欲しいが、安価なロングシートが採用されがちなのは誠に残念だ。
 鉄道が走るような地域は高校の数も複数あるから、制服ごとにどっと下車したり、また乗車してきたりと、賑やかな光景が繰り広げられる。見ていると、学校ごとにカラーが違って面白い。乗車すると同時にスマホに集中する高校生がほとんどだが、中には全員ノートと参考書を取り出して勉強し始めることもある。そんな場合、心なしか大人びた顔つきで、しかも身なりはきちんとしているように見えるが、こちらの先入観もあるかもしれない。テスト前のにわか勉強の可能性だってあるからだが、いずれにせよ、必死にノートを見ている高校生は可愛いものだ。
 大都市圏では新幹線通学する高校生もいるが、私が経験上一番驚いたのは始発の特急列車で宇和島から松山まで通う高校生が少なからずいたことだ。途中からもどんどん乗車してくる。おそらく県立の進学校は県庁所在地にあるからなのだろう。通学定期代も馬鹿にならないだろうから、親の苦労が偲ばれる。

高校生とサロンカー


 さて今回紹介するのは、それとは一線を画す、素敵な通学列車である。熊本県の人吉盆地を走る 「 くま川鉄道」は第3セクターのローカル線だ。国鉄湯前線として開業し、JRに移管後、平成元年に誕生した。沿線にはビックネームの観光地がなく、どちらかというと地味な田園路線だが、5校ほど高校があって通学路線としての需要がある。それにしても取り立てて特徴のない鉄道会社なのだが、大きく変貌を遂げたのは、水戸岡鋭治氏デザインの新型ディーゼルカーKT-500型が5台導入されたことによる。

 鉄道会社としては観光に力を入れて多くの客を招きたいところだが、やはり利用者の大半は高校生。素っ気ないロングシートが当たり前の路線に、特上のサロンが誕生したのだ。高校生達にとっても使い勝手の良いロングシートは、良くデザインされたソファー。

 また外の景色を楽しむことが出来るボックスシートも、お洒落な照明とテーブルを備えている。これなら会話も弾むはずだ。すべてのシートの柄は異なり、ロングシートとボックスシートの間には、パーティションとして肥後独楽などが飾られている。

 列車の交換で手の空いた運転手に「贅沢な列車ですね。素晴らしい」と語りかけると、「水戸岡さんのデザインです。大勢の高校生が乗るので、ちょっときついですが」と答える。どうやら席が足りないということらしいが、所詮どこでも高校生は立っていることが多いのだから問題ないだろう。それより、シートに座った者同士の会話が弾むところに設計者の狙いがあるのだろうから。

 人吉駅で乗車した際は、多くの女子高生で席は埋まっていた。車内に入った瞬間にその内装に驚いたのだが、まさか写真撮影をするわけにはいかない。しかし終点の湯前に着く時に乗車していたのは私だけだった。その際に車内の写真を心置きなく撮らせて貰った。

 こうしてみると、都会の学生は気の毒だなと思う。味気ない満員電車に揺られ、コンクリートジャングルの中の無個性な校舎で学ぶ生徒が大半だ。地方に行くと、学校の校舎が立派なことに驚かされる。そこに現れた水戸岡鋭治氏プロデュースのサロンカー。このような土地で成長すれば、感性も研ぎ澄まされるに違いない。この車両のテーマは「田園」だそうだ。勿論全線が田園地帯を走るからだが、そこにベートーベンが掛けてある。ヘッドマーク代わりに描かれたト音記号がその証拠である。
(2017/8/23乗車)