2018年5月30日水曜日

高熱隧道を行く【破】センター・オブ・ジアース !?

準備

「リュックの中身が見えるよう、開いてそこに置き、その場に立って下さい」
と言って、やおら取り出したのは金属製の丸い輪っか、ハンディタイプの金属探知機である。なんだか物々しいぞ、と思う間もなく、あっという間にボディチェックにパスして、赤いシールと紙の帽子を手渡される。
「あなたは赤グループです。適当な所にお座り下さい」

 欅平駅二階のレストランに集まったのは、ほとんどが中高年で若者は数名しかいない。世の中、時間的富裕層は限られている。本人確認のために公的身分証明書を提示し、ボディーチェックを30名全員が終えるのに、さほど時間は要しなかった。
 物々しさとは裏腹に、人の良さそうな恰幅の良い男性が案内人である。彼による見学会の説明と注意が始まった。レストランの柱に飾ってあった欅平散策コースの美しい写真パネルが裏返される。現れたのは、これから訪れる黒部コースの解説図だ。随分と手回しが良い。見学コースのほぼすべてが地中であり、発電所関係者や作業員だけが行くところなので、見学者も紙の帽子を被ってヘルメット着用し、指示には従うよう念を押された。
「トンネルで一番怖いのは火災です。万が一発生した場合は、この防煙マスクを着用して下さい。使い方は、まずヘルメットを脱ぎ、このようにマスクを装着してベルトを締め、再びヘルメットを被って、身を低くして脱出します。乗車するトロッコやバスの座席の下に設置してあります」
 まるで離陸前の機内アナウンスのようだ。ところが大きく違っている点があった。
「このマスクで数分間呼吸が可能です。」
 はあ? 何㎞もあるトンネルなのに数分じゃ脱出できないじゃないかと不安が募る。ところが恰幅のよい案内人はニコニコと笑っている。
「もっとも今まで一度も使われたことがありません」
毎回こうやって脅かしているのだなと、見学者達も気づき、笑いが広がる。なかなか口の達者な人である。だんだんと期待が高まってくる。
 考えてみれば、これから見学する所は、社会インフラとして重要な発電所とその関連施設なのだ。主催者がテロを警戒するのも当然のことだった。

上昇

 トロッコ列車の終点から先は関西電力の専用軌道となる。トンネルを500㍍ほど進んだところで、列車はバックし始めた。竪坑エレベーターの乗り口はスイッチバックした所にあった。どうしてこんな厄介なことをするのか、その理由はトロッコだけを上に持ち上げるためだろう。スムーズに作業するためには、機関車が先頭でない方が良い。
下部駅は標高600㍍
宇奈月からの線路が続いている

 竪坑エレベーターと黒部上部専用鉄道(上部軌道)は、仙人谷ダム(黒部第三ダム)建設のために計画された。日中戦争が泥沼化した時代、化石燃料のいらない水力発電は、電力事情の逼迫する当時の日本に於いては国家要請であり、人跡未踏の山岳地帯にトンネルをぶち抜くという難工事が始まった。

 欅平から仙人谷までは距離にして6.1㎞、標高差が250㍍ある。欅平の黒部第三発電所にとっては都合の良い落差であっても、約41‰という勾配は作業用トロッコには厳しい。そこで竪坑で一気に200㍍昇り、残りの50㍍は6.1㎞かけてゆっくり登ろうと考えたのである。
上部駅ではゴミ積載トロッコ
がエレベータを待っていた 

 昭和12年に完成した竪坑エレベーターは、現在は二代目のものだ。箱の中もにも線路が設置され、トロッコがそのまま積み込めるようになっている。最大積載量は4.5トン、人なら36人まで乗れる大型のエレベーターだ。昇ったところに欅平上部駅がある。


展望

 上部駅に隣接する欅平竪穴展望台に立ち寄った。ここからは黒部の深い谷からは見ることの出来ない後立山連峰の山々を垣間見ることが出来る。あいにくの曇天だったが、ガスもかからず、緑の山の奥に雪を頂いたアルプスの山々が顔を覗かせている。
 穴蔵の中をぐるぐると巡ってきたので、一瞬方向感覚を失ったが、しばらくして自分が黒部川右岸にいて、東向き立っていることがわかってきた。見慣れた長野側の風景を逆に眺めているのだ。
一番奥の雪山、手前の緑の山
に隠れて分かりずらいが、左
から白馬鑓、やや高いのが天
狗の頭(クリックして拡大し
て下さい)        

 左(北)側から、白馬槍、天狗の頭。南に目を転ずると、鹿島槍と爺ヶ岳。いずれも後ろ姿である。黒部川は深い谷底でここからは見えないが、川底から700㍍ある絶壁、奥鐘山の大岸壁が見える。いまは国の天然記念物に指定されている景勝地も、仙人谷ダム建設時には悲劇が起こった場所だ。作業員宿舎が泡(ほう)雪崩と呼ばれる爆発的表層雪崩に吹き飛ばされ、一山越えて大岸壁に激突し、数十名の命が一瞬に奪われた。
中央下に奥鐘山の大岸壁。奥の雪
山は、左が鹿島槍、右が爺ヶ岳。

*竪穴展望台と更にその上のパノラマ展望台へは、富山県や地元市町村・関西電力などがタイアップして実施しているツアーで行くことが可能。6月から11月までの金〜月、宇奈月から往復する。料金6,000円

      http://kurobe-panorama.jp/ 

隧道

車両の床面は高いので、勢いを
つけ過ぎると頭をぶつける  

 展望台から戻って、いよいよ今回の旅のお目当て、黒部上部軌道に乗車する。黒部峡谷鉄道とは違って、こちらのトロッコは蓄電池駆動の機関車が牽引するミニ鉄道だ。電気ならいくらでも利用出来る黒部なのに、電気機関車を使わないのにはもちろんわけがある。温泉地帯を通過するために、硫黄で架線が腐食して使い物にならないからである。高熱のため、ディーゼル機関車も燃料が発火する危険性があった。
隧道は狭く、素掘り区間が多い
高熱区間はこの先約5㎞の地点
欅平上部駅から仙人谷駅までの間6.1㎞をおよそ30分掛けてゆっくりと進む。その間、すべてがトンネルであり、しかも車内は狭い。説明会で渡された赤いシールは、1号車に乗車する10名であることを示している。身を屈めないと車内に入ることも出来ず、ヘルメットを被った訳がよく分かる。立ち上がることも、身動きすることも出来ない30分だ。
 案内人が隧道建設の苦労を語ってくれる。ほぼ吉村昭の『高熱隧道』に沿った話だが、現場で聞くだけに、グッとこみ上げてくるものがある。ここで亡くなった人がたくさんいるのだ。

 軌道トンネルは三つの工区に分かれて建設が始まった。事件は仙人谷に近い第1工区で起こった。掘り進めるとすぐに、硫黄の匂いと岩肌からあつい湯気が湧き出したのである。担当の建設会社は工事放棄し、トンネル工事に定評のある第2工区の佐藤工業が引き継いだ。この時点で岩盤の温度は65度に達していた。火薬取締法によるダイナマイトの使用制限温度は40度、すでに限界を超えていた。
 黒部の冷たい水を掛けながら掘り進む。水を掛けても掛けてもたちどころに熱湯と化す中、遂に岩盤の表面温度は160度に達し、ダイナマイトの自然発火による暴発で数多くの人が命を落とした。それにしても、どうしてこうまでして掘り進むのか。ぜひ、一読をお勧めする。私がここを訪れたいと思ったのは、先にも述べたように、この小説に出会ったからだ。外が見えずとも、身動きできずとも、この30分が苦痛であるはずはなかった。
 乗車して20分、案内人の『高熱隧道』話は続く。

硫黄のにおいが
たちこめる
「そろそろかな」
と言って、案内人がドアを開ける。あっという間に眼鏡が曇った。カメラのレンズを拭きたいが、身動きできない。硫黄の匂いが立ちこめる。素掘りのトンネルはうっすらと黄色い。犠牲者のことが頭をよぎる。安らかに…と心の中で祈る。
「今でもこの付近は40度以上あります。今日はもう少し高いようですね。」
ドアを開けるまで熱気に気付かなかったのは、この車両が耐熱構造になっているからだった。
「今はこのトンネルに並行して導水管が走っているために、トンネル自体の温度も下がっています」
 黒部の水は一年を通してとても冷たい。この水のおかげで電気も生まれ、トンネルも冷やされている。

「いやあ、今日は良い話を聞きました。前回訪れた際は、案内の方があまりおはなしにならなかったので…」
と、一人の中年男性がいたく感心している。どうやら高熱隧道の話は知らないまま見学していたようである。釈然としないが、山が見たくて参加している人がほとんどのようだ。

ダム
上部軌道は定期列車が
毎日4往復運行


 高熱隧道区間はおよそ500㍍。そこを過ぎると、沿線唯一の地上区間である先人谷駅に到着し、休憩する。ここは黒部川に架かる鉄橋に頑丈な屋根を設けた駅だ。この屋根のおかげで、どんなに雪深くとも上部軌道は運行可能という。
1940年竣工の仙人谷
ダム(日本の近代土木
遺産に指定)    

 駅の目の前には、黒部峡谷に抱かれた仙人谷ダムが圧倒的な存在感で迫ってくる。残雪を頂いたガンドウ尾根の真下には雪渓があり、三段に分かれた滝となって水が流れ落ち、黒部川と合流している。この豊富な水を利用したくて、多くの犠牲を払いながらも、ダムを造りたかったのだなとしみじみ思う。

 ダムと反対側は、深くて白くなめらかな谷底と清流である。水の多くは導水管を通って欅平の発電所に送られているから水量は少ないが、それだけに川底が透けて、コバルトブルーが際立っている。ダムの脇の窪みからは、今もわずかながら湯煙が上がっていた。

 この上部軌道には、今も一般人が乗ることは出来ない。したがって黒部に魅せられた登山家達は、黒部川流域に造られた水平歩道を利用してここまでやってくる。軌道に乗れば6.1㎞の道のりも、絶壁に造られた幅数十センチの歩道は13.6㎞になるという。関電関係者を除けば、上級登山者だけが見ることの出来る風景を、この見学会は見させてくれるのだった。
(2018/5/30乗車)

高熱隧道を行く【急】地上に戻る

学習

 高熱隧道を体験するという私自身の目的は果たしたものの、見学会主催者の本来の目的はここからだ。仙人谷駅での見学を終えて再び上部軌道に戻り、数百㍍乗車して着いた所が、黒部川第四発電所である。当ブログの趣旨とは異なるが、発電事業の理解のため、かくまでも手厚く体験会を用意してくれていることに敬意を表して、レポートを続けることにする。

 黒部ダムで取水された水は、後立山連峰に掘られた約10㎞の導水管によって赤岩岳の地中、黒四発電所との標高差471.5㍍地点にやってくる。ここから傾斜角47度・延長641㍍の水圧鉄管内を水が落下し、4台の発電機を回して、33万5千㌗の電力を生み出している。黒部水系全体では12の発電所によって90万㌗というから、いかに黒四発電所の規模が大きいかが分かる。しかも施設すべてが、地下にあるから驚きである。中部山岳国立公園の自然景観を損ねることなく、社会インフラとして日本経済を支えていることは、いくら強調してもし過ぎることはないだろう。だからこそ、関西電力もわざわざ体験会を実施しているのだ。
幅22㍍、高さ33㍍、奥行き117㍍
の発電所建屋        

 わざわざというのには理由がある。発電の制御はすべて遠隔操作であり、メンテナンスを除き、本来ここは無人の施設なのだそうだ。私のような暇人、しかも関電ユーザーでもない一個人相手に、決して安くないコストを掛けて案内してくれる…有り難いことである。このくらいのレポートを書かせて貰わないと罰が当たるというものだ。

 無人の発電所内は、整然として美しく巨大だった。4基の発電機の上には無駄とも思えるような天井の高い空間がある。発電機は大きな水車と発電装置から成り立っていおり、それらはすべて床下にあって、見えているのはほんの一部分に過ぎないのだという。この装置をつり上げるには大きな空間が必要であり、そのためのガントリークレーンが前後の壁に2台設置されていた。
部屋の上に発電機
下には水車がある

 発電所建屋を見た後、発電機の実態を体験するため、数階分階段を下る。分厚いガラス越しに発電機が見える。扉を開けると、回転する円筒形のシャフトから凄まじい轟音が聞こえてきた。一人一人、近くまで見学して良いという。こわごわと入室し、見上げると、発電コアが高速回転している。足下からは激しく水のぶつかる音がする。耳栓なしではあっという間に難聴になってしまう騒音レベルだ。

 かくも大がかりな発電施設だが、原発は1基で100万㌗というから、それに比べるといかにも効率の悪い感じもする。今では水力発電は日本全体でわずか9%を占めるに過ぎないのだ。しかし、今回学んだことで一番印象に残ったのは、この水力発電がクリーンエネルギーであるだけでなく、需要の増減に柔軟に対応できるシステムだということだ。急激な電力需要増加に対して、停止状態からフル発電まで、わずか3時間で可能なのだという。必要に応じて稼働できるという、実に資源を無駄にしない、まさにエコの原点のような水力発電は、これからも活躍が期待されることだろう。
 ということで、私を見学会に招待した関電の狙いは見事に達成できたのである。


歓声

左:インクラインとクレーン 右:傾斜角34度の軌道

 発電所を後に、再び地中の移動が開始される。発電所のある標高869㍍地点から1325㍍地点までをインクラインで一気に登る。この聞き慣れないインクラインとは、資材や作業員を運搬するための「ケーブルカー」もどきのことだ。昭和34年に造られたもので、黒部第四発電所の巨大施設はすべて、長野県側から関電トンネルと黒部トンネルを通り、このインクラインに載せられて下に降ろしたのだそうだ。だからこの昇降装置そのものも巨大だ。
 ふつうケーブルカーは傾斜にあわせて階段状に座席があるけれど、写真を見ても分かるように、軌道自体は34度の急斜面なのに、車体は水平になっている。直角三角形を逆さにした台車の上に客室が載っていると考えればわかりやすい。資材運搬の時は上のクレーンで客車を取り外せばよい。
 案内人はうまいことを言う。
「お客さんを乗せるのがケーブルカー、レールの上を走るので鉄道です。というわけで国土交通省の管轄。一方インクラインは、資材と作業員を運ぶ工事現場にあります。だからレールがあっても鉄道ではなく、厚生労働省の管轄」
 つまり厳密にはこのブログの守備範囲ではないということになるが、それは法律のはなしであって、これは紛れもないケーブルカーである。815㍍の距離を20分掛けて登っていく。時速3キロにも満たない超鈍足で進むうちに、中間地点で擦れ違った車両には、この日もう一組の黒部ルート見学会・黒部ダム集合グループが乗車していた。ゆっくりなので一人一人の顔まで見える。車内で一斉に歓声が上がり、あちらでも懸命に手を振ってくれている。見知らぬ同士とはいえ、こんな地底の世界で、希有な体験をしているという共通の思いが、心を揺すぶったのだろう。
 
帰還
黒部トンネルバスダイヤ
12:10発45着公募と記されている

 黒部ルート見学会もいよいよ大詰めを迎える。残るは黒部トンネル10.3㎞をバスで移動するだけである。途中、タル沢横坑で休憩があり外の景色が見られるという。ここは資材運搬のために掘られたトンネルのため、アルペンルートのような大量輸送が可能な施設はない。擦れ違えるところも限られているので、鉄道のようなダイアグラムが掲示されていた。鉄道の旅は終わったが、余韻を楽しませてもらっているかのようだ。ダンプカー1台が通れるような素掘りのトンネルが延々と続く。排ガスのための換気装置もなく、所々に掘られた横坑を利用しての自然換気だそうだ。
右奥の雪山が裏剱

 その横坑の一つに立ち寄る。バスを降りて50㍍ほど歩くと抗口に出る。柵越しに体を捻ると黒部の峡谷が見える。谷は深く川の流れは見えないが、十字峡のあたりだという。重なり合った山の一番奥に見える残雪の山が名峰、剱岳だ。こちらからの姿を裏剱と呼ぶのだそうだ。だいぶガスがかかってきた。雨が近いのだろう。
 再びバスに乗れば、ツアーも終わりに近づく。立山黒部アルペンルートの関電トンネルの下を潜り(と言っても見えるわけはないが)、大きくカーブを切ると右側から合流するトンネルがあった。天井に架線が張られているので、扇沢からのトロリーバスのものだと分かる。黒部ダムに到着したのだった。

 ヘルメットを返却してツアーは終了となった。関電の事務所脇の通路を出れば、そこは人でごった返すアルペンルートの真っ只中。ドアの外は黒部ダムである。雨脚が強く、立山連峰の山々が次第に雲に隠れていくような悪天候になっていた。
(2018/5/30)

2018年5月9日水曜日

日本一の絶景鉄道(ケーブル部門)

 これまでも何度となく触れたように、ケーブルカーは鉄道の仲間である。日本には一体どれほどのケーブルカーがあるのだろうと、思いつくままに北から順に数えてみたのが次のリストだ。厳密な名称ではなく、大雑把な場所で示したものもある。このほかにも旅館がエレベーター代わりに敷いた線路もあるのだが、ここでは一応鉄道法によって定められたものだけを取り上げてみた。

 青函トンネル記念館(青森)、黒部・立山(富山)、筑波山(茨城)、高尾山・御岳山(東京)、大山・箱根(神奈川)、十国峠(静岡)、坂本ケーブル(滋賀)、叡山ケーブル・鞍馬寺・天橋立(京都)、生駒山(奈良)、男山・信貴山(大阪)、高野山(和歌山)、妙見山・六甲山・摩耶山(兵庫)、八栗(香川)、皿倉山(福岡)、別府ラクテンチ(大分)

 このうち八栗と別府のケーブルには残念ながらまだ乗車したことがない。であるから、これから紹介するのはあくまでも中間報告、暫定レポートであることを言い訳のように記しておきたい。

「馬鹿と煙は高いところが好き」というのは、舞い上がって目立ちたがる者を揶揄した言い回しだが、目立ちたいとは思わないものの高いところは絶景がつきものだから是非訪れてみたいもの。ケーブルカーの魅力はそれに尽きると言っても良い。
妙見山のケーブルカー
乗車中の車両は左側を通ります。

 と記すと、青函トンネル記念館のケーブルカーは地下200㍍まで潜るためのものだと、突っ込みを入れられそうである。確かに…ほかにも黒部のケーブルも全線トンネルの中。
 まあ、例外はあるにせよ概ねケーブルカーは見晴らしが良いものだ…と記しておくが、実は周囲の樹木に遮られて、山頂の展望台まで少し歩かないと絶景にお目にかかれないというのが大半である。乗車している人達も、一番面白がっているのは、中間地点での擦れ違いであったりする。あの変なポイントはどうなっているのだろうか。どうして車両はぶつからずに左右に分かれるのだろうかと思いながら眺めているのは楽しいものだ。

 
 そのような中で、正真正銘の絶景鉄道といえば、間違いなくここだ。




 日本三景の中で、ケーブルカーから眺められるのはここ、天橋立だけ。お勧めです!
なお、山頂に着いたら是非有名な「天橋立、股除き」に挑戦しましょう。馬鹿にせず、恥ずかしがらずにやってみると、本当に感動します。不思議なことに、撮影した写真を逆さにしてもあの感動はないのです。お試しあれ!
(2018/5/9乗車)

鉄道会社はお寺さん

鞍馬寺本堂を目指す

 京都北山の鞍馬寺といえば、鞍馬天狗か牛若丸かというほどに、昔からヒーローとの関わりが深い。年配の方々ならば、ついでに「とん、とん、とんまの天狗さん♫」を思い出すかもしれないが、もちろんこれは鞍馬天狗のパロディ。オロナイン軟膏のお世話にもなりました。それはともかく、天狗から武芸を教わった牛若丸、もとい義経を含めて、鞍馬は天狗関係者の住み処である。だから鞍馬の駅を降りると、まずは真っ赤な天狗がお出迎えしてくれる。
叡山電鉄鞍馬駅前

 駅から山門までは歩いてすぐだが、そこから本堂までが実に遠い。清少納言が『枕草子』で記したように、「近うて遠きもの、くらまのつづらをりという道」というくらい、山登りを覚悟する必要がある。つづら折りとは鞍馬寺の参道のことで、途中には鞍馬の火祭で有名な由岐神社や義経ゆかりの場所がある。参拝しながら歩いて登り、本堂にお参りした後は奥の院を通って貴船神社までトレッキングするのが、鞍馬寺参拝のお約束みたいになっている。山歩きの苦手な、か弱い平安女性じゃあるまいし、だからこんなところにケーブルカーがあるなどとは、ちっとも知らなかった。
 しかし、今私は全国の鉄道すべてに乗らねばならないという修行の身である。そこに鉄道があるなんて知らなかったで済む話ではない。由岐神社も義経供養塔も吹っ飛ばし、平安女性よりも安直に、鞍馬寺本堂を目指さなければならなかったのだ。
普明殿

 こうして若葉の美しい季節の夕方、鞍馬寺の山門までやって来た。ケーブルの最終は16時半である。日没は19時だから少々早い気もするが、連休を終えて人もまばらだから仕方ない。受付で拝観料を払おうとすると、
「16時で本堂は閉まっています。ですからお金は頂きません。どうぞそのまま参拝して下さい。ケーブルの最終は16時半ですよ」と、再現不能の優しい京都なまりで説明してくれた。それにしても本堂が閉まった後にケーブルに乗る人なんているのだろうか。

 山門からすぐの所に普明殿という建物があった。過去には素通りしていたところだ。鉄筋コンクリート造りの、まるで休息所のような雰囲気だから、これからつづら折りを目指そうと張り切っている者には関心が沸くような場所ではないので、見落としていた。なんとここが駅だったのだ。建物入り口には「普明殿」とあるものの、正式名「山門駅」などとはどこにも記されていない。どこの観光地でも、ぜひお金を遣って貰おうと「ケーブル乗り場」とか「近道こちら」とか、うるさいほどの看板が立ててあるものだが、やはりここは聖域らしく金儲けの札はどこにもない。
 ふと入り口脇の掲示板を見てみると、様々な宗教行事のお知らせの下に、小さな札がぶら下がっていた。そこに「ケーブルのりば」と小さく書いてある。これに気づけという方が無理というもの。最初から知っている人以外は歩いて登らせたいのだろうか。

功徳を施す


 普明殿に入っても、そこにケーブルカーは見当たらなかった。ここでも控えめに、「ケーブルは二階から…」とあるだけだ。誰もいない階段を上ると、がらんとした空間に、誰も座っていないパイプ椅子だけが並んでいる。順に座ってお待ち下さいと貼り紙がある。慈悲深いことである。
 切符の自動販売機は片隅のテーブルの上に置かれてあった。百円玉2個入れると、レシートのような「切符」が出てきた。そこには「御寄進票 大人200円 鞍馬山鋼索鉄道 当日限り有効」と記され、18.5.9 16:19と日時が打ってある。「御寄進票かあ」と独り言つ。こちらが乗せて頂くのに、何か功徳を施したような気分になった。さすがお寺さんだと感心する。

 功徳票、もとい御寄進票に書かれているように「鞍馬山鋼索鉄道」というのが、このケーブルの正式名だ。日本で唯一、宗教法人が経営する鉄道である。だから社員(?)は鞍馬寺と刺繍の入った作務衣を着ている。16時31分、1分遅れで作務衣を身に纏った乗組員の案内で車内に入る。乗客は私と、発車直前に飛び込んできたもう一人の男性。3人を乗せた車両が警笛を鳴らして山門駅を後にする。

 それは全長191㍍、高低差89㍍、全線単線のケーブルカーだった。普通ケーブルカーといえば、2輌の車両同士が中間地点で擦れ違うはずだが、「鞍鉄」の場合、擦れ違う車両がない。1輌だけが上り下りしているのだ。終点が近いので見ればすぐわかる。多宝塔駅にはさぞかし強力なモーターがあって巻き上げているのだろうと思っていると、何やら上からレールの下を降りてきたものがある。重りである。なるほど、これなら強力なモーターでなくても運行できる。エレベーターと同じ原理だ! とするとケーブルカーではないのかも。現に、この形式の斜面エレベーター設備を備えたホテルを知っているぞ。
 
 法律のことはよくわからないから、これ以上の詮索はよそう。とにかく日本で最短の鉄道会社らしいので、それを尊重することにする。それの方が面白いし、功徳にもなる。エレベーターと違って、きちんと警笛も鳴らしていることだし(某ホテルでは警笛はなかった)。
多宝塔駅にて

 わずか2分ほどで多宝塔駅に到着する。そこには参拝を終えた10数人の人達が待っていた。ケーブルカーは彼らを乗せて、16時35分、慌ただしく下りていった。これが事実上の最終だったのである。
 私はこのあと扉を閉ざした、誰もいない本堂の前で手を合わせ、奥の院方面は夜間照明がなく天狗は出ないが熊が出ると注意書きがあったので、ひたすら急いでつづら折りを下った。
(2018/5/9乗車)

2017年12月22日金曜日

近江鉄道、車窓の景色が宝物!?


生きるか死ぬか

「車窓からの景観を奪われるのは許せない」と、かつて国鉄に楯突いた鉄道がある。明治29年創業の老舗、滋賀の近江鉄道だ。新幹線がすぐ脇の南側に建設されれば、日当たりは悪くなるし、ゆったりとした田園風景も失われる。それでなくても経営不振の近江鉄道にとって観光客離れにもなりかねず死活問題だと訴えたのである。オリンピックに間に合わせたい国鉄は、前代未聞の景観補償費を出すことで一応の決着がつくのだが、後に国会で大問題となった。親会社が西武鉄道であり、その社長が政治家でもある堤庚次郎だったということもあって、社会問題にまで発展した。今から50年前の話である。
 一体どんなところを走っているのだろう。生きるか死ぬかの景色にも出会ってみたい。ぜひとも訪れたい鉄道だった。

滋賀のローカル鉄道

 平成29年が終わりを告げようとする早朝、底冷えのする米原駅にやってきた。新幹線が停まり、東海道線と北陸線が分岐する重要な駅なのに、駅前には見事なほど何もない。コンビニすらないので、腹が空いているけれど、自動販売機の飲み物くらいしか口にするものがなかった。人々は乗り換えるためだけにこの駅を利用するのだろう。歴史的にも中山道と北国街道が分岐する有名な場所だが、北の長浜と西南の彦根という二つの城下町に挟まれた、ごく控えめな宿場町だったのである。今も昔も旅人が通り過ぎていくところだ。
 ガランとした駅前の一角に、これまた見落としそうな近江鉄道のホームがある。7時08分発の近江八幡行に乗るため、切符を買おうと思ったが、無人改札脇の自動販売機はまだシャッターが下りていて使えない。始発からすでに3本目、朝の通勤時間が間近なのに人影はまばらで切符すら買えなかった。
米原駅にて
そのものズバリ「赤電」のヘッドマ
ーク。車両の裾が鋭角にカットされ
ているのは、車両限界が小さめなの
で改造したものだという。    

 すぐにやってきた二両連結の電車は、かつて東京の郊外を走っていた西武の「赤電」だった。くすんだ赤とベージュのツートンカラーが懐かしい。定刻になると、わずか10人ほどを乗せて走り出す。

 出発して間もなく左側に一風変わった新幹線電車3両が見えてくる。ここは鉄道総合技術研究所の施設、米原風洞技術センターで、実験車両が保存展示されている。こちらの風洞実験施設では時速400㎞に相当する風力実験が可能ということで、3両の車両は鉄道史に残る走行実験を行ったものだ。JR東海の300Xは1996年に京都〜米原間で時速443㎞、JR東日本のSTAR21は1993年に燕三条付近で425㎞、JR西日本のWIN350は1992年に小郡〜新下関間で350.4㎞を叩き出し、いずれも今日の新幹線の礎となった。その輝かしい歴史の脇をローカル線がトコトコとのんびり走っている。
 次に右側に見えてくるのは、田圃の中にひときわ高く聳え立つ実験棟だ。FUJITECというエレベーター企業の主力工場のものだそうで、青い空に突き刺さるような白い塔が美しい。停車駅の名前もずばりフジテック前。ここでわずかばかりの乗客ほぼ全員が降りてしまった。やや早いとは言え、朝の通勤時間帯にガラガラの電車ではさぞかし経営も厳しいだろうなと心配になる。およそ10分で城下町彦根に到着する。
 米原・彦根間は、JRならば5分で運賃は190円。日中なら1時間に4本走っている。一方の近江鉄道は10分かかって運賃は310円、しかも日中は1時間に1本。まったく勝負にならない。よくぞ廃線にならないものだと感心する。彦根には本社と工場・電車区があり、近江鉄道の一大拠点だ。ここでロングシートが満席となりホッとする。

 この電車は近江八幡行だが、私は途中の高宮で乗り換えて多賀大社に参拝するつもりだ。日本の国土を産んだイザナギ・イザナミの命を祀る由緒正しき元別格官幣大社だ。門前町で朝食にもありつけるかもしれない。

 およそ9分で高宮に到着、ここで坐っていたほとんどの乗客が下車し、ホーム向かい側の多賀大社前行に乗り換える。高宮には近江八幡方面からの電車も到着していて、その乗客も乗り換えて来ているので、多賀大社行は吊革につかまる人もいるほどの盛況ぶりだ。
 ローカル線を旅していると、朝のこの時間帯は大方女子高生で満員になることが多い。勿論世の中男女の人数はほぼ同数のはずだが、かしましい元気印の女子高生の前では草食男子はスマホの画面に逃げるしかなく、著しく存在感に欠けるので、女子高生ばかりが目立つのだが、多賀大社行は圧倒的におじさん軍団で占められていた。華やぎは一切なく、これから一日の仕事が始まるのだという、何となく重苦しい雰囲気が漂う。
 おじさん軍団は、次のスクリーン駅で下りるようだ。ここもまた企業名がそのまま駅名となったものだ。ワンマンカーのため、運転席横のドアまで延々と人が並び、次々と降りて、そのまま工場の中に吸い込まれていった。次の終点多賀大社前まで乗車したのはわずか数名であった。
真っ白な霜が朝日に輝き、荘厳な
佇まいの多賀大社。      


 多賀大社への参拝を終えて、一旦高宮まで戻る。高宮では近江本線の電車が交換し、そのタイミングに合わせて多賀線も運行されているために、三方面からの電車が集合離散する。

 ここでの乗り換えはちょっとした見ものだ。本線のホームは対面式で跨線橋はなく中央に踏切が設けてあって、利用客は線路を横断して移動する。電車はそれぞれ踏切の手前で停まるので、遮断機は下りたままだ。このままでは本線上りと多賀線との間で乗り換えができない。果たしてどうするのかと眺めていると、あろうことか乗り換え客は遮断機の下を潜って移動している。駅員も、運転手も、地元の乗客も馴れたもので、皆当たり前のように事は進んでいく。豪快というか、おおらかというか、とにかくローカルな私鉄である。
高宮駅に本線上り彦根行が入って
きた。伊藤園のラッピングカー、
先頭が「おーいお茶 濃い茶」後
ろが「緑茶」。車両の前の遮断機
が下がっている点に注目! この
棒を押し上げて線路を横切り乗り
換える。           

 近江鉄道は運賃が高いと記したが、実は安いフリー切符も売られていた。金曜日を含む週末限定販売の「1デイ・スマイルチケット」だ。一日乗り放題で破格の880円、確かに笑顔が浮かぶ。高宮駅の駅員さんが教えてくれて、直ちに購入する。
 米原駅でも買えるそうだが、窓口が開いている時間のみ販売ということで、結局この日普通に買ったら2630円かかるところを1400円で済んだ。米原駅の窓口が開いていれば、米原・多賀大社間の520円も節約できたのだが、まあそこはこの鉄道への支援金ということ納得。お金の話は品がないのでこれ以上避けたいところだけれど、それにしても差があり過ぎで、ちょこっと乗るだけの地元の人が可愛そうな感じがした。

タイル壁画の物語

 高宮を出てしばらくすると、前方に新幹線が立ち塞がってくる。この先、尼子・豊郷・愛知川の三駅を含むおよそ8㎞が新幹線併走区間だ。盛り土区間なので確かに左側の景色はまったく見えず、ひたすら日陰を走る。頭上を頻繁に重低音を響かせて新幹線が行き来する。右側だけを見れば、のんびりとした冬の田圃の景色が広がっている。「生きるか死ぬかの風景」論争が、かつてこの場所をめぐって繰り広げられたのだが、鈍感な私にはまったくピンと来ない。ごく普通の田園風景のように思えた。

 新幹線と分かれ、暖かい日差しが戻り、八日市に着く。ここからは八日市線が分岐している。八日市線は商都近江八幡とを結ぶ最重要路線で、日中は他路線の倍の本数の電車が走っている。とはいっても、1時間に2本なのだが。
 吹き抜けとなった大きな三角屋根の駅舎から出て、駅前広場を歩いてみる。なかなか立派な駅前である。その駅舎のちょうど正面中央に大きなタイル壁画があった。古代の装束を身にまとった男と女が描かれている。その由来を読んでなるほどと思った。ここはかつての蒲生野だったのだ。
 高校の古典教科書に登場し、里中満智子の漫画『天上の虹 持統天皇物語』にも取り上げられている、額田王と元カレ大海人皇子のラブストーリーの舞台である。古典というとちょっと敷居は高いが、内容はワイドショウーや週刊誌ネタになるようなアブナイ「不倫」物語である。

 天智天皇の妻となっていた額田王が、天智天皇の弟であり元カレの大海人皇子から求愛される場面を万葉集は次のように記している(訳は気にせず、眺めるだけでよし)。
 
    天皇の、蒲生野(かまふの)に遊猟(みかり)したまひし
    時に、額田王の作れる歌

  あかねさす紫野(むらさきの)行き標野(しめの)行き
  野守(のもり)は見ずや君が袖振る

    皇太子の答へませる御歌〔明日香宮に天の下知らしめしし
    天皇、謚(おくりな)して天武天皇にといふ〕

  紫草のにほへるいもを憎くあらば
  人妻ゆゑに われ恋ひめやも

 白村江の戦いで唐と新羅に敗れた日本は、敵襲を恐れて都を海から遠い大津に移していた。天智天皇は大津京からほど近い蒲生野に狩りに出かけたのだが、その一行の中に額田王と大海人皇子がいた。額田王がひとり佇んでいると、そこに別れた前の夫がいて袖を振っている。当時の人たちにとって、それは求愛のしぐさだった。野の番人に見られたら大変とばかりに元妻はたしなめる歌を贈る。
 すると大海人皇子は、美しいおまえを憎いと思うならば、どうして今は兄の妻だからといって、恋い慕うことがあるものかと、返歌を贈ったのでる。否定的な仮定法と反語が用いられているので、古文嫌いにはわかりにくいかもしれないが、要するに、今は私のもとを離れて(兄に奪われて)兄嫁となってしまったおまえだけれど、とても憎いとは思えず恋しいのだと訴えた、というお話。

 この歌は天智天皇もいる宴席で歌われた戯れ歌らしいのだが(大人同士って怖いなあ。ニコニコした顔しながら神経戦を繰り広げている)、のちに壬申の乱を起こし、天智天皇側を打ち負かした大海人皇子のことを知る後世の者にとってみれば、大らかな時代であったとばかりはとても思えず、歴史の奥底を垣間見る思いがするものだ。そこを綺麗に歌い上げるからこそ、文学でもあるのだが。

景色から感じ取れるもの
蒲生野を走る貴生川行き電車の
後方車窓。右が鈴鹿山脈。  

 その蒲生野を走る鉄道こそ、近江鉄道だった。そう思うと、不思議に景色も違って見えてくる。冬枯れの田園風景はかつては蒲の生い茂る湿地だったのだろう。天智天皇はカモを狩りにやって来たのかもしれない。ところどころに点在する雑木林は男女の密会の場にうってつけだ。額田王はそれを見て想像を逞しくし、意味深長な歌を披露した。思いを断ち切れない元彼は敏感に反応する。全てを手に入れた天皇は豪快に笑った。のちに壬申の乱・・・おお、怖っ!

 野原の向こうには、鈴鹿山脈が連なっている。雪を頂いてひときわ輝く山は、御在所岳に違いない。山脈を越えれば三重県湯の山温泉であり、四月に近鉄全線走破の際に訪れた。あの時とは違う季節の雪が積もっている。
 視線を車窓反対側に転ずれば、琵琶湖方面に山脈が連なり、こちらも雪を頂いている。方角から見て、比叡山より北に位置する比良山地のようだ。こちらは古来、近江八景のひとつに数えられている景勝地だが、蒲生野はそれらすべてを借景にして、おだやかな陽だまりの中にあった。

 生きるか死ぬかの風景かどうかはともかくも、この特別絶景でもない風景と新幹線や高速道路のような近代的景観が馴染むとはとても思えない。今を生きる我々にとって、新しい交通機関はなくてはならないものだが、そのために誰も見たことがないものを受け入れなければならなかった現地の人々にとっては、戸惑い以外のなにものでもなかったのだろう。時が経てば、あれだけ大騒ぎしたこと自体が忘れ去れていく。それでいいのだと思う。
 電車は終点貴生川に近づく。貴生川は忍者の里で有名な甲賀の地である。近江鉄道はここまでだが、貴生川から先は信楽高原鉄道が続いている。高原鉄道とはいっても、信楽高原があるわけではないが、貴生川と信楽の間の峠越えは見晴らしが良く、そこからは蒲生野が眼下に広がっている。それを見てすべてを納得した気になり、安心すると、急に空腹が身に沁みてきた。
(2017/12/22乗車)

2017年12月20日水曜日

明治の鉄道遺産めぐり

日本初の市電に乗る

 鉄道好きにとって愛知県犬山の明治村は見逃すことのできないユニークな博物館だ。明治時代の鉄道建造物だけでなく、園内をめぐる乗り物そのものが動く鉄道遺産だからだ。
品川燈台駅にて

 名古屋大学の前身、旧第八高等学校から移築された正門を入って長い坂を下ると、そこは市電京都七条駅。タイミングが合えばチンチンと鐘を鳴らして路面電車が通り過ぎる。仮にここで出会えなくても気にせず先を急ごう。目指すは品川燈台、京都市電の始発駅である。

 明治村は日本の「ため池百選」に選ばれた入鹿池に面し、広大な園内には70近くの歴史的建造物が点在する。歩いて回るのも楽しいが、とにかく広いので乗り物を上手に利用するとなおさら面白みが増す。まずは見晴らしのよい南東の端にある品川燈台から鉄道を乗り継いで、北の外れのSL東京駅を目指すのがおすすめだ。

 京都市電(当時は京都電気鉄道)は日本で最初の営業用電気鉄道である。日本で初めて電車が走ったのは明治23年東京上野で開かれた第四回内国勧業博覧会の会場だったが、東京市内は馬車鉄道のままであり、営業用としては明治28年の京都市電に栄誉を譲る。日本で最初に水力発電を行った蹴上発電所から電力を受けていたことでも有名だ。明治村では明治43年製の電車が走っている。
ダブルルーフには明かり取りの窓
がよく似合う。すりガラスにはお
しゃれな模様が。       

 茶とクリームのツートンカラーに、時代を感じさせるダブルルーフ。その上にはポールと呼ばれる竿の先に滑車の付いた集電器が載り、運転台は吹きさらしだ。車体の前後には万が一横切る通行人がいた場合、命を守るための救助網がついている。車輪は2軸4輪が無骨な板バネに支えられている。4輪というとまるで自動車のようだが、鉄道好きには最近見かけなくなった貨車のように見える。ただしモーターが付いているので、詳しい話は省略するが、レールに接した車輪とモーターが密着しているので振動が激しく、うなるような大きな音をたてて、ゆっくりと進んでいく。速度が出ない上に、ブレーキの効きがよくないので止まるのも大変だ。警報のチンチンという鐘の音を鳴らしながら、シューシューと制動をかけながら減速する。金糸で装飾された威厳のある制服を着た運転手さんが、神経を集中させてマスコンとブレーキを操っている。熟練した技だ。動態保存だからこそ味わえる音と振動が、五感を通して昔の市電を感じさせてくれる。
市電京都七条駅にて

 品川燈台から京都七条までは入鹿池の湖畔をめぐるルートで眺めがよい。京都七条周辺は最も人通りの多いメインストリートを横切るため路面電車の趣が漂っている。実際の京都市電は発足当時事故が絶えなかったので、安全のために信号人や告知人と呼ばれる先走りの少年がいた。明治村では、踏切などない時代を模して、メインストリートに告知人の中年男性を配して安全を呼びかけている。
カーブを曲がれば終点は近い。

 京都七条から終点市電名古屋駅までは、谷間にある第四高等学校の武道場「無声堂」を見下ろすように山林の中を進んでいく。オメガカーブとも呼ばれる大きな迂回路だ。本来路面電車だったので、このような場所は通らなかったはずだが、明治の電車に雑木林は一幅の絵になるほど相性が良い。市電名古屋駅で下車し、少し登ったところにSL名古屋駅はある。


陸蒸気と明治村の繋がり
SL名古屋駅に到着する12号機関車

  新橋・横浜間に鉄道が開業したのは1872(明治5)年。日本にはまだ大学がなく、廃刀令や西南戦争もこの後のことで、碌な道路もない時代に産業革命の申し子だった汽車が走るというのも不思議に思えるかもしれないが、悪路だからこそ鉄のレールを敷けば走れたのだと考えれば、道路よりも鉄道が発達したことがうなずける。
 開業から2年目にイギリスから輸入された陸蒸気が、146年経った今も元気に明治村で走っている。シャープ・スチュアート社製の12号機関車は動輪が二軸で炭水車を牽引しないBタンクと呼ばれるタイプだ。後ろに繋がれている客車は、当時のものではなく、青梅や新宮から持ち運ばれたものだが、すっかり周囲に溶け込んで違和感がない。
向きを変えて機周り線をゆく。

 SL名古屋駅に到着すると、すぐに機関車は客車から切り離されて、ホームの先に設置された転車台へと向かう。そこで機関士と機関助手が力を合わせてターンテーブルを回し、向きの変わった機関車は機周り線を通って客車に繋がれるのである。この間の作業が面白く、乗客たちは食い入るように見つめている。
 汽笛の合図とともに出発。重い客車を牽引するため、ゆっくりとした加速で進んでいく光景は、蒸気機関車ならではの趣きだ。せっかちな現代人も、ゆったりとした時間の経過に酔いしれる。途中駅はなく、菊の世酒蔵の巨大な建物の脇を通り過ぎると、有名な帝国ホテル中央玄関が見えてくる。フランク・ロイド・ライト設計の建物は、明治村の一番奥でひときわ偉容を誇っている。赤い鉄橋を渡れば、そこはSL東京駅である。
SLは30分から1時間に1本運行され
ている。           

 東京駅に隣接して、転車台と機関庫が設置されている。東京駅のホームからは石炭庫や給水施設が見える。ここでも機関士による人力の転車シーンが楽しめる。走行距離こそ短いが、明治村の鉄道施設はすべて本格的なものだ。名古屋鉄道に関係深いだけのことはある。
 12号機関車は東海道線で働いたあと、明治の終わりには名古屋鉄道の前身の一つ尾西鉄道に払い下げられた。その際に国鉄時代は165号機関車だったのが現在の12号に改められたのだという。だから陸蒸気であっても、12号には特別な思い入れがあるのだろう。
尾西鉄道1号機関車と六郷川鉄橋

 明治村と尾西鉄道・陸蒸気の関わりは他にもあって、尾西の1号機関車が静態保存ながらも展示されている。しかも、それは1878(明治10)年に架けられた、陸蒸気が行き来する六郷川鉄橋の上になのだから、ますます凝った展示といえよう。この鉄橋は、六郷川での役目を終えた後、御殿場線に移設され、最後に明治村で余生を送っているものだ。
(2017/12/20乗車)

2017年9月8日金曜日

木曽谷の森林鉄道


森林浴鉄道

 木曽の檜(ヒノキ)は、青森ヒバ・秋田スギと共に日本三大美林のひとつに数えられる。そしてここ赤沢自然休養林は、日本の森林浴発祥の地でもある。美林の中を散策すると、樹木が発散するフォトンチッドによって免疫力が向上するし、その香りによって心はリラックスする。ストレスに痛めつけられた現代人にとって、ここは癒しの場そのものだ。
アメリカ製蒸気機関車
ボールドウイン号(1916年〜1960年)
残念ながら静態保存

 高度経済成長期、伐採された樹木を運搬するための森林鉄道が日本中に造られ、木曽地方だけでも総延長500㎞に及ぶレールが敷かれた。線路幅がわずか762㎜しかない簡易鉄道である。それが今でもわずか1.1㎞だけ残されている。というよりも、1975(昭和57)年に一旦は全廃されたものの、1987(昭和62)年に自然休養林内の施設として復活した。であるから、赤沢森林鉄道は東京ディズニーリゾートのウェスタン鉄道と同じように正式な鉄道ではなのだが、だからといって作り物ではなく、日本遺産にも指定された歴史的建造物なのだ。
檜の大木の下、
赤沢の渓流を行く
森林鉄道

 森林鉄道記念館が併設された乗り場から、丸山渡(まるやまと)停車場まで、列車は赤沢の渓流に沿ってコトコトと走る。わずか7〜8分で着いてしまう短い旅だが、あたりには樹齢300年に及ぶ檜の自然木や、伊勢神宮の式年遷宮のために植林された檜などが生い茂り、途中には沢に架けられた二つの木製の橋を渡るなど、変化に富んだ風景が広がる。屋根だけが付いた吹きさらしのトロッコ客車に揺られているだけで、森林アロマセラピーができてしまうという贅沢な乗り物だ。
 渓流の沿って整備された「ふれあいの道」を散策する人達も、1時間に1本の森林鉄道が通るのが楽しみのようで、笑顔で手を振ってくれる。つられてこちらも年甲斐もなく手を振ってしまう頃には、すでに心も癒されている。
機回し線を戻ってくる機関車。
環境に配慮して煙の出ない
ディーゼル機関車を新造した

 丸山渡停車場で降りて、そこからはいくつもある散策コースを歩いて出発地点まで戻る人も多い。機関車を付け替える5分ほどの間、森林鉄道の前で記念撮影したり、せせらぎまで下りて一息入れるだけの人もいる。中には復路も森林鉄道を利用し、列車に乗ったまま森林浴を済ませてしまう人もいる。

 森林鉄道は麓に木材を運ぶことが目的だから、上流に向かう際は機関車はバック運転、荷を満載して下流に向かう際は前進運転となる。バック運転の場合、機関士は身体を捩って後ろを振り返るような格好で運転操作を行う。長時間運転の際は、さぞや苦しいことだろうと思う。

オープンな客車に坐っていると、
アロマの風が頬を流れて快い  

 この地はもともとは皇室の御料林だったこともあって、ひときわ大切に保護されてきた。森林鉄道記念館には、今上天皇が皇太子時代に訪れた際に乗車された貴賓車が残っている。小さな客車の中には、白いカバーの掛かった椅子が置かれていたが、決して豪華なものではない。
あすなろ橋を渡れば終点は近い

 また理髪車と呼ばれる特殊車両が展示されていて、山間で不自由な生活する人々のために、散髪のための施設が各所を回ったと説明がある。森林鉄道はそこで暮らす人々には欠かすことの出来ないものだったことが窺い知れる。しかしながら、あくまでも木材運搬が目的であって、人間様は二の次だ。1961(昭和36)年に上松運輸営林署が布告した掲示には「便乗中万一災害が発生した場合に於いても営林署は民法及国家賠償法に基づく損害賠償の責任は負いません」とあり、あくまでも自己責任で乗車せよと、今では考えられないようなことが書かれている。昨今の消費者(乗客)に過保護な姿勢も如何なものかと思うが、これはこれでまた凄い。日本人は真面目で、どこまでも極端なんだなあと思ってしまう。
(2017/9/8乗車)

 注)駅や車内で繰り返される録音放送は、列車の接近に始まり、行き先や停車駅、更には接近すれば注意を促す。時には録音を遮って、駅員が生で語りかけて来ることもある。実にうるさいし、そもそも客を弱者扱いし過ぎだ。事故が起これば、鉄道会社の安全配慮義務を問われるから、その対策なのだろうけれど。

【赤沢自然休養林への行き方】
中央線上松(あげまつ)あるいは木曽福島までは、名古屋から特急しなので1時間25分。そこから先は専用バス(1日3〜5往復)で、上松からは30分、木曽福島からは45分。