2012年8月23日木曜日

スーパーおおぞら 283系 スーパー北斗 281系


追分駅に到着する釧路行スーパーおおぞら

283系特急気動車はカーブに強い振り子式を採用.
側面に釧路湿原に生息する丹頂鶴の赤をあしらっ
ている。単線の石勝線は追分駅手前で分岐、右側
は通過用。           (2012 8.23)




函館行スーパー北斗運用の283系

281系と異なり、かなり厳つい顔をしている。
ヘッドマークはLED,前照灯が縦に並び、貫通
幌の枠も無骨だが,その分だけ力強さを感じる
                   (2012 8.24)

函館駅 281系

283系と比べてスマートな感じがする。ヘッド
マークは従来通り巻き上げ式のものを使用
            (2012 8.24)



2012年8月22日水曜日

札沼線の終着駅 

急行寝台列車、札幌へ

   国鉄時代には全国に夜行列車網が広がり、時間はあっても金のない貧乏学生の強力な助っ人になっていた。知らない土地には行ってみたいが、食事代は節約できても宿泊代までは浮かせにくい。夜行列車は移動と宿泊が同時にできる実に重宝な存在だった。
 その典型が北海道だった。

1983年8月時刻表より
————————————————————————————————————
   21:33→48(小樽回り)→05:01
   23:15→すずらん62号→06:12 
 札幌                 函館
   06:04←すずらん61号←23:35
   06:51←41(小樽回り)←23:51
————————————————————————————————————
   22:10→まりも3号→06:15 06:24→ノサップ1号→08:54
 札幌                 釧路                根室
   06:25←まりも4号←22:35 22:30←  274D  ←19:36
————————————————————————————————————
   22:15→大 雪 5号→07:26
 札幌               網走
   06:15←大 雪 6号←21:14
————————————————————————————————————
   21:25→利  尻→06:22
 札幌              稚内
   05:56←利  尻←21:00
————————————————————————————————————

 札幌を21時から23時に出発し、目的地には6時から8時に到着するという無駄のないダイアであった。北海道の主要都市が夜行急行で結ばれているおかげで、宗谷・知床・納沙布・阿寒・摩周・函館などの道北・道東・道南は、宿泊代を浮かしながら旅することが可能だった。日中は見学先で過ごし、夜になれば一日おきに札幌に戻ってくる。札幌周辺では市内見学はもちろんのこと、小樽や積丹半島に足を伸ばせばよい。実に便利な夜行列車だったが、盲点は道央で、80年代に入って人気が高まる富良野や大雪山系は行きづらい(宿泊代にお金が掛かる)場所の一つであった。

急行はまなす

青森発
全国的に夜行列車が廃止される中、今でも昔を彷彿とさせるスジで走っている列車がある。それが急行「はまなす」だ。札幌と青森を結ぶ急行「はまなす」は、北海道内だけでも利用できる最後の夜行列車といえるだろう。函館通過が深夜となるため、本来は青森・札幌間で利用する急行だが、夜中の1時に函館で乗車して6時過ぎに札幌下車というように宿泊用としても十分に利用価値がある。上り列車で函館の乗り降りは余程のことがない限り利用はしづらく、あくまでも青森からの乗車が良いのだが、それにしても乗り換えなしに寝ている間に札幌に到着するのはありがたい。

————————————————————————————————————
   22:00→はまなす→02:52/03:22→はまなす→05:39  
 札幌            函館             青森
   06:07←はまなす←01:23/01:00←はまなす←22:42
————————————————————————————————————
 
 さて、今回の北海道乗り尽くしの旅は、札沼線や留萌本線、石勝線の枝線などに乗ることが目的で、終着駅を訪ねる旅でもある。北海道への第一歩として、時間の有効利用からはまなすを選んだ。

急行はまなすのエンブレム

1号車7下、久し振りに二段式B寝台を利用する。7下は車両中央で揺れの少ない所だが、14系客車はディーゼル発電機が床下に設置されているのでとてもうるさく感じる。寝台に入ってカーテンを閉めてしまえば気にならないのだが、こんなところにもこの車両が時代に取り残されているなあと思う。もっとも寝台列車好きには、穴蔵のような空間に入ってしまえば心がウキウキしたまらないのだが。
 さっそく酒宴。今日の日本酒は弘前六花酒造の吟醸酒じょっぱりと龍飛。じょっぱりは頑固者の意味だそうで、水は白神山地の伏流水を使っているという。龍飛の方は文字通り竜飛岬の水。摘みは、やはり土地の名産、ほたて十万石という笹かまぼこで、ほたて、むきえび入り。あっという間に出来上がって、そのまますぐに寝入ってしまった。函館停車で一度目覚めたが、そのあとは5:15の車内放送までぐっすりだ。
朝もやの中を走る
 起きて気付いたのは、同乗者が生活感漂う中高年ばかりで、実に庶民的なことだ。ブルートレイン全盛期の7〜80年代は贅沢だったB寝台も、より豊かになった今では昔を知る人しか乗らない車両となったのかもしれない。繁忙期直後で1(号車)と2(号車)の間に21(号車)を増結している上に、上段を使用していないため、車内は人数が少なく快適であった。列車は函館でスイッチバックするので、機関車の次だった1号車が最後尾に変わっているので、道内では後方車窓が楽しめる。目覚めた時は千歳線を走っていた。このあたりの風景は曖昧で大雑把なな感じなので、北海道好きな自分だが、この風景はいただけない。札幌には6:15、やや遅れての到着。
札幌着

【編成】
スハネフ14 551+オハネ24 501+オハネフ25 3+スハフ14 555+…

 朝食はキオスクで済ます。とうきびおにぎり、野菜ジュース、キウィヨーグルト。”大通公園名物”と銘打ったおにぎりは、だいぶ期待はずれだった。甘辛たれはベトベト、コーンはぽろぽろ。やはりおにぎりはさっぱしてないとね。”名物”に騙されてはいけない!

学園都市線と呼ばれる札沼線

 札沼線の名称は札幌と石狩沼田を結ぶ路線として開業したことに由来するが、昭和40年代に新十津川・石狩沼田間が廃止となってしまい、実情に合わない線路名となっていることもあって、近年は学園都市線の名前で親しまれている。しかし、その名前も北海道医療大学駅までがぴったりで、電化されて通勤通学電車が通うのもここまでだ。
札幌にて クハ731 205
札幌7:02発普通石狩当別行535M電車は、三つ扉のロングシートだった。前日青森までの各駅停車の旅がほとんどロングシートだったこともあり、いささかうんざりだが所詮通勤電車なので仕方がない。札幌から一駅めの桑園で函館本線と分かれ、しばらく高架のまま札幌の市街を走る。石狩当別までは通勤電車そのもので、外の風景が次第に郊外から農村に変っていく。石狩当別には7:47定刻通り到着する。

 さて、ここからが旅の始まり。電化されて比較的本数が多いのは一つ先の北海道医療大学なのだが、この地域の主要駅はここ石狩当別である。ここから終点新十津川まで走る列車は一日わずかに3本、朝・昼・夕だけしかない。途中の浦臼まではあと3本あり、要するに札沼線末端はローカル線以上の閑散路線なのである。
 石狩当別7:51発新十津川行気動車が接続するのだが、これが大混乱なのだ。先ほどの通勤電車からこの1両編成気動車にほとんどの人が乗り込むので超満員。乗客の半数は1駅めの北海道医療大学で降りるが、それでも通路やデッキは高校生でいっぱいだ。せめて2両編成にすればいいのにと思うが、通学定期相手にはサービス無用と考えているのだろうか。ようやくガラガラになったのは、石狩月形でDK(男子高校生)JK(女子高校生)が下車してからだった。30分以上満員で揺られていたことになる。 

ローカルな札沼線

石狩月形にて キハ40 401
ここからが旅の仕切り直し。札沼線は石狩平野の北側のへりをゆくのどかな路線である。稲があり、そばの白い花も見える。札沼線の「沼」とは、石狩川の蛇行で取り残された有名な三日月湖(沼)が至る所にあるからだろうと、勝手な想像をするが、実際は先ほど述べた通り、札幌と留萌本線の石狩沼田を結んでいたからである。月形という地名は三日月湖そのものだから、沼の由来もこちらの方が由緒正しい感じなのだが。

石狩月形に交換列車が接近する
広がる石狩平野のへりには集落ができる。集落とは言っても広大な農地をほこる北海道だから人口は多くない。そこを走る札沼線だから月形の高校をあとにすると、乗客は鉄道ファンばかりである。乗客はおそらくフリー切符で乗っているから、この線にはお金は落とさない。従って空気を運んでいるばかりである。この効率の悪さが、鉄道に情緒を与えるのだから始末が悪い。

ピンネシリ方面を眺める
ところがちょっと興ざめなのが、こんなローカル線でも車内テープ放送があり、その声がおなじみの女性の声、東京の通勤電車で流される声と一緒だったこと。「次は○○です。お降りの方は前の方にお進みになり、運賃箱にお金と整理券をお入れ下さい」と流れるが、誰も立とうとはしない。それも当たり前である。何の用向きもなく、ただ終点に行くことだけを目的としている「鉄ちゃん」ばかりだからである。私などは、左右に一つずつボックスシートを占有して、両側の風景を楽しんでいる。駅に近づくと顔を窓から出して、乗ってくる客のいないことを確認し、席にふんぞり返る。極楽である。
 
先は廃線。建物が建っている
ところでテープのアナウンスでは「この列車は…」と正確に案内しているのにも関わらず、運転手がマイクで告げる案内では「この電車は…」と言っている。電車は電気で走るもの、軽油で走る列車は気動車だ。「そんなこまかいこと、どうでもいいじゃん」と言われそうだが、それなら蒸気機関車も電車って言えるのかと突っ込みたくなる。JR職員がそれでいいのか。終わってる!!
 終点新十津川には9:28到着。線路前方遥か先に車止めがあり、その向こうには2階建ての集合住宅が立ち塞がっている。どうしてここが終点なのか、その根拠は曖昧に違いない。かつてはこの先があったくらいだから、駅は途中駅の作りだ。終着駅とは言ってもその風情があるわけではない。
 ホームに降りると、なにやら賑やかだ。地元の幼稚園児が可愛い浴衣に着替えてよさこいソーランで出迎えてくれていたのである。列車はこの先昼まで来ないから、この列車のためにわざわざ踊ってくれているのだ。ただのおじさんとしては、望外の出迎えにいささか照れるが、嬉しくなった。ここへ来て良かったと思う。園児の踊りや到着した列車をテレビカメラが追っていた。HBCのロゴが見える。趣味に現を抜かしている姿など撮られたくないから、ホームの先までそおっと歩き、小さな駅舎を通らずに、新十津川の駅前にでる。
花で飾られた駅舎

 地図を見ると、ここから滝川の駅までは石狩川を隔ててほんの近い位置にある。歩けない距離ではないだろうと高を括っていたら、だだっ広い北海道の風景は歩いても歩いても変化に乏しく、思いの外時間がかかった。炎天下、早足で50分歩かされた。

   新十津川 9:37<歩き>10:26 滝川

目に見えるゴール

留萌本線増毛駅にて

留萌本線終点 増毛駅
駅の裏手に灯台があり、ここが
岬の突端であることがわかる。
終着駅ということばの響きには、哀愁が漂っている。決して明るい将来を感じさせるような語感はなく、傷ついた人が涙とともに降りてくる、そんな諦観・悲哀といった演歌の世界が似合うことばである。

 ところがそのようなステレオタイプな印象とは異なって、終着駅に実際に降り立ってみると、そこはどこか人のこころを慰めてくれるような安堵感に包まれる所が多い。長い旅を終えて、ようやく辿り着いたという満足感である。この先は行き止まり、もう先には行けないんだ、ではなくて、もう先には行かなくて良いんだとホッとする思い。それこそが終着駅にふさわしいイメージではないだろうか。

車止め=目に見えるゴール
キハ54 527
留萌本線増毛駅に降りた時、たまたま居合わせたNHKBSプレミアム「新日本風土記」の取材班にインタビューを受けたとき、終着駅への思いを尋ねられ、咄嗟に思い浮かんだのはそんな思いだった。「日頃都会で前へ前へと過ごしている自分にとって、ここは<目に見えるゴール>、癒されますね」と思わず口について出て来たことばは、自分でも驚くほど新しい発見だった。

新日本風土記

 増毛はかつて鰊の町であり、今は日本最北端の酒醸造所のある町である。高倉健の映画『駅 STATION』の舞台となったところでもある。鉄道が敷かれる前は留萌よりも栄えていたが、鉄道とともに地域の中心は留萌に移り、ここは寂れた。しかし夏の日差しは明るく、日本海は穏やかでハッとするほど青く美しい。

国稀酒造
何の予備知識もなく、終着駅だからこそやって来たこの増毛で、北限の日本酒と出会った。暑寒別岳の伏流水で造る酒「国稀」だ。酒蔵の見学と試飲が可能、旨い酒である。昼は国稀の冷酒を飲みながら、甘海老丼で舌鼓を打った。今、この地の鰊漁は完全に廃れ、甘海老漁が盛んだそうだ。レールの果てに出会いがあった。

北海道・行ったり来たり真ん中の旅ノート



深川 → 旭川 8/22 晴れ

 先頭車窓を楽しむ。JR北海道は前方風景を楽しめるのがよい。スーパーカムイ?号は深川を出るとまずは真っ直ぐな線路が続く。そこを120キロで疾走するのは気持ちよい。線路がしっかりしているし平坦で、走るのは絶好の場であるが、鉄道特有のわずかに蛇行運動するのがわかる。この動きを抑えないとその上のスピードは出せないのがわかる。石狩平野の端に近づくと、レールは大きく右に曲がり山並みの中に突入していく。トンネルの手前ギリギリのところで制動がかかり100キロまで減速する。トンネル内で高速走行中に石が舞い上がり、窓ガラスが割れた事故への対応だそうだ。各駅に列車遅延の貼り紙がある。原因不明のため、対策がたてられるまでの措置だという。何本かあるトンネルでは、バラストの上にシートを張り、重しが置かれて飛散防止が図られていた。それでも100キロ走行である。
 今回前方で初めて知ったのは、トンネル内での濃霧である。中間あたりで前方視界が突然悪くなる。(霧の)固まりがあるのだ。でも減速はしないので、ちょっと不安になる。運転手の方が暗い中前方にいるので見えるのだろう。
 旭川が近づく。すっかり変わっていた。(駅舎は)木と白い鉄骨とガラスのオブジェである。市民の寄付を募ったのか、壁面の木のパーツ一つ一つに名前が記されている。僕も参加したかった。
    
旭川 → 新得  8/23 曇り時々小雨

富良野駅で
  高校生通学列車。(旭川を出て最初の駅)神楽岡からは女子高校生が明るく元気に乗車してきた。そのあとをぐずぐず乗ってくる男子高校生。次の緑ヶ丘あたりは町並みが雑然として人口が多いのがわかる。この駅でも男子高校生は女子高生のあとから乗車。どこへ行っても、元気なのは女子。近頃の男子はどうなっているのかと改めて思う。
   旭川から離れるにしたがって、町並みが良くなる。西御料で高校生16名が下車し、別の高校生13名が乗車してくる。がらっと雰囲気が変わり、女子5名は席に着くなり携帯とゲームで楽しみ始める。だいぶ校風が違うようだ。
 車窓には田圃が広がる。西瑞穂・西神楽、いかにも日本的というか神話的な地名が続く。出雲あたりからの入植者が多かったのだろうか。
広内信号場 キハ40
 千代ヶ岡。このあたりは稲と蕎麦が多い。丘が多くなってきた。山も少し姿をあらわしてくる。千代ヶ岡から峠を下り北美瑛へ。いかにもそれ美瑛っぽい丘、つまりCMで取り上げられるような風景が広がってきた。美瑛駅は石積みでカッコいい。さすが有名観光地。この美瑛ではすべての高校生が下車し、替わりに観光客が乗ってくる。8:21、観光開始時間なのだろう。 
 富田ファームの前を通って、富良野へ。ここでは20分停車。列車を切り離し、この先は1両になる。17名乗車している。雨が降り始める。旭川からの富良野線はここまで。ここからは根室本線だ。本線とはいいながら、根室本線を走り通す列車はない。始点の滝川から新得までは完全なローカル線であり、優等列車は走らない。釧路から根室の間も快速はあるが、あとは各停だけ。
西新得信号場 283系
 空知川から金山湖、落合で旧線と別れ右にカーブしつつ日高山脈に穿たれた新狩勝トンネルに突入する。トンネル内で石勝線と合流、交換施設も完備した落合信号所がトンネル内にある。トンネルを抜ければそこからは十勝平野である。列車は緩やかな大カーブと穏やかな傾斜で造り直されたルートに沿って、ゆっくりと新得の町へ下っていく。かつては日本の三大車窓の一つに数えられた旧狩勝峠にも近い。標高差およそ200mをとてつもなく大きなS字カーブで下る。途中いくつもの信号場があって、車両交換も頻繁に行われる。

  
新得駅 261系
新得 → 追分 8/23  曇り

 新得の蕎麦屋「みなとや」に寄る。冷酒でほろ酔い気分。居眠りしながら追分まで。ということで記録なし。





  
追分 → 岩見沢 → 追分  8/23  曇り   キハ40 1788

岩見沢駅 
 さて、この室蘭本線、なんとも時の流れに取り残された感がある。土地も豊かに見えない。石狩平野の向こう側に、日本海側の山並みが見える。岩見沢駅は美術館のような美しいデザインだ。JR北海道の新しい駅はどこも意匠を凝らした素敵なものが多い。(このあたりの)室蘭本線は忘れ去られた、見捨てられた鉄道なのだろうか。
 岩見沢から一駅区間は北海道らしい豊かで伸びやかな風景が広がっている。よく整地された牧草地と田圃、小じゃれた建物。ところがそこを過ぎると風景は一変する。そこかしこの農家は今も生計を立てているのだろう、醗酵した牧草から漂う強烈な酸っぱいような匂いが漂っているのだが、手入れを忘れた土地が多く、荒廃しているのだ。しかも、途中からは非電化複線という日本離れした風景で、まるでイギリスの鉄道を見ているかのようだ。炭鉱時代の名残なのだ。それが今は使われぬまま放置されている。
室蘭本線(左)と石勝線
 追分は、かつて鉄道の町だった。駅前東側は住宅地が広がり、西側は広い構内のむこうは荒野に見える。そこに室蘭本線と石勝線が同居している。室蘭本線は堂々とした複線だが、線路は赤茶けて枕木に犬釘で固定されている。歴史を感じさせるつくりだ。一方、石勝線は単線ながらコンクリート枕木と重いレールを用いた高速対応となっている。
  
追分 → 夕張 → 新夕張 → 札幌  8/23  曇り

 夕張線は廃墟の中を走る。かつてそこにはたくさんの人が暮らしていたが、今は人の住まない集合住宅がたくさん点在している。シャッターの降りた商店、レールを外されて空っぽになった異様に広い構内をもった駅、あこには今はめったに閉まらない踏切や長い長い屋根付き横断歩道橋など、すべては炭鉱列車が頻繁に通っていたころの施設なのである。ここでは風景が化石化している。
夕張駅
 しかし夕張駅前には、これまた異様に小じゃれたホテルがでんと建っている。今どき観光客は鉄道を使わずバスでやってくるのだろうけれど、果たして部屋は客で埋まっているのだろうか。夕張市は財政破綻団体だったはずである。
 駅隣りの店で、夕張メロンジュースを飲む。500円也。メロンがたっぷり入って大変おいしい。ただ店の人によれば、夕張メロンはほとんどが東京出荷されてしまい、地元には残らないのだそうだ。旬は5月から7月、このジュースも今季最後だそうな。ラッキー!
 乗車してきた気動車で新夕張へ。ここで特急に乗り換え、札幌へ行く。
 宿泊は大通公園のビジネスホテル。夕食はラーメン横丁へ。

 
札幌 → 千歳 → 追分 → 苫小牧 → 函館 → 新青森 → 上野 8/24 曇り

 札幌駅は見違えるばかりに美しく立派になった。京都駅に引けを取らない豪華な造りである。北の玄関駅の名に恥じない意匠だ。
Furico
 でも個人的な好みを言えば、真黒く煤けたホームの方が気に入っている。気動車特急を数多く擁するから、天井や柱は真黒なのだ。こういうところは英国に似ている。電車は静かに出発の時を待つが、Furicoは轟音をまき散らしている。朝だけに、ビジネススーツに身を固めた人が多く乗っている。
 7:41千歳発追分行キハ40 1715はJK・DKで満員だったが、急にぞろぞろと降りていく。7:25発手稲行に乗り換えるためだった。つまりこの車両はここまで高校生を運んでくるためにあり、これからはまるで回送列車にように私を追分まで運んでいくのだった。今回3回目の追分。ここから苫小牧まで室蘭本線完乗の旅が続く。


 

2012年8月21日火曜日

東北本線昼景色 第1章 関東平野


 東北本線の風景が見たいと思った。若い頃は何遍も北海道との行き来をしたが、その殆どは時間とお金の節約から夜行ばかりだった。昼間に上野から青森まで乗り通したことが3回ほどあるが、あれからすでに35年も過ぎている。最後に乗った初秋の東北本線は、北上するにつれて稲穂が黄緑色から見事な黄金色に変わり、収穫あとの稲藁を干す風景が広がっていた。その季節はまだ先のことだが、福島から白石に抜ける国見峠越えは、雄大な福島盆地を見下ろす絶景路線だし、塩竃を過ぎたところで一瞬見える松島も捨てがたい。北上川と寄り添うように盛岡を目指し、岩木山が見えてくるのも悪くない。岩手から青森にかけてのもの寂しい風景に浸るのも、新幹線では決して味わうことの出来ない旅の醍醐味だと思う。あの風景にもう一度逢いたくなった。
 北海道連絡としての在来線鉄道の役割が終えた現在、東北本線には昼間の急行や特急は一切走っていない。震災前までは仙台行きの「スーパーひたち」が常磐線回りで34本走っていたのだが、あの忌まわしい原発事故によってそれさえも失われてしまった。だから青森まで行くには各駅停車だけを乗り継ぐことになる。9回乗り換え10本の列車に乗って青森を目指すのだが、果たしてどうなることやら。昔から鈍くさい各駅停車は余り好きではないから、旅の醍醐味だなどと気取っておきながら途中で飽きてしまい、乗りたくもない新幹線にさっさと乗り換えてしまうかもしれない。

1.上野6:49 宇都宮8:18 3521M 快速ラビット
   サロE231-1027 5号車9D  

 821日月曜日。快晴。上野駅高架8番線には649分発の快速「ラビット」宇都宮行きが、まばらな乗客を乗せて出発を待っていた。美しい実りの秋にはまだ早いが、喧噪のお盆を終えた上野駅は普段の落ち着きを取り戻し、気儘な旅にはうってつけの時期になった。上りのラッシュまではまだ時間があるし、ましてや下りに乗る人など大勢いるわけがない。席はどこでも自由に選べるのだが、ここは少し贅沢をして、グリーン車2階席を選び、少しでも旅の気分を盛り上げようと思う。
 サロE2312階席は定員が44名、出発までには7名ほどの乗客が座った。隣が気にならない最適な乗車率だ。そうこうするうちにホームのベルが鳴る。いよいよ東北本線各駅停車の旅の始まりだ。ドアの閉まる音が聞こえ、よし行くぞと気分が盛り上がる。
 東北の旅だから本当は地上ホームから重々しく出発したかったが、高性能の電車は素っ気ないほどさっさと加速して、あっという間に国立科学博物館のラムダ4Sロケットが視界後方に流れて行ってしまった。西日暮里で上りの寝台特急「あけぼの」とすれ違う。今では数少ない貴重なブルートレインであり、大好きな列車の一つだが、「今回は昼間の風景が目的だから乗るのは我慢」と自分に言い聞かせる。この宇都宮行きは快速なので東北本線最初の駅、尾久は通過。広々とした操車場には「北斗星」の予備車が止まっていて、行き先表示板には札幌の文字が見える。今回の旅は青森の後に北海道に渡る予定なので、明日の今頃は札幌だなあとワクワクする。ところがその後すぐ火事で黒こげになった建物が目に飛び込んでくる。王子の飛鳥山の麓に長い間放置されたままの建物だ。毎日通勤電車から見ている人もいるはずだが、皆どんな思いで見ているのだろう。近くによったら今でも焦げ臭いにおいが鼻をつくのだろうなと、殺伐とした思いがよぎる。
 赤羽を過ぎると、まだ柔らかさを残す朝日の光が荒川鉄橋を照らしている。にわかにレールを走る車輪の音が大きくなった。それにつけても鉄橋を渡る轟音は、東京を離れる際に鳴り響くファンファーレであると思う。東海道本線の六郷川橋梁、東北本線の荒川橋梁、常磐線や総武線の江戸川橋梁という風に、東京はその周囲を川で囲まれている。出掛けるときは、「いよいよ東京とお別れだ」としみじみ思い、帰路は「ああ、戻って来ちゃった」とがっくりくる。この轟音は東京人にとって、日常と非日常、現実と夢を截然と区分けする魔法の音楽なのだ。その点中央線はもの足らない。多摩川を渡ってもまだ東京は続き、緑豊かな郊外風景の中を高尾まで行けば漸く東京の外れに着く。それはそれでいい所だなとは思う。しかし中央線ではファンファーレが鳴り響かない。中央線ファンの方には申し訳ないが、小仏トンネルの轟音には華がない。トンネルの前の東京も、出た後に山梨と思いきやまだ神奈川でうろうろしていて、どこもみな素晴らしい自然が広がっていながら、旅立ちのけじめをどこでつければ良いのやら皆目わからないのである。
 湘南新宿ライン用のホーム建設中の浦和駅を通り過ぎると、早くも睡魔が訪れる。うつらうつらするうちに大宮に着いた。大宮からは10人ほどの乗客があり、2人がけのシートはほぼ片方すべてが埋まった。多くはスーツに身を固めたビジネスマンだ。宇都宮で働く人にとって、快速ラビットは818分宇都宮着の通勤電車である。ということは、彼らは宇都宮まで毎日グリーンで出勤するのだろうか、そんな贅沢が出来て羨ましい限りだ。
仙台に次ぎ沿線有数の殷賑を誇る宇都宮の存在は大きく、いつの頃からか関東地方では東北本線とは呼ばずに宇都宮線と愛称で呼ばれるようになった。新幹線ができて以来、上野発の在来線列車が東北地方まで行かなくなったからごく自然のことのように思えるが、もともと上野からは高崎線があったのでそれに併せて宇都宮線にしたとも思える。となると残る常磐線は水戸線にしなくてはならないが、こちらの方は既に友部・小山間のローカル線で使われているから見送られているのかもしれないなあ、などととりとめもないことを考えているうちに蓮田に近づく。この辺りから緑が多彩になり風景に深みが増してくる。稲穂が少し黄色く色づいている。収穫の秋はまだ先のことだが、この先北上するにつれて田圃の様子がどう変わっていくのか楽しみである。
 東北自動車道の下を潜り、ゴルフ打ちっ放しの大きなフェンスが見えれば久喜は近い。建設中の圏央道はコンクリート製の橋脚だけがドミノ倒しのドミノのように見事に連なっている。完成もそう先のことではなさそうだ。続いて田圃の中を新幹線の高架橋が徐々に近づいてくる。
久喜で先行の各停を抜くため乗客が入れ替わり、発車のチャイム「アマリリス」が鳴り始める。駅のチャイムファンには叱られそうだが、僕は有名な曲をアレンジした駅チャイムが嫌いである。アマリリスはまるで小学生になったかのようで子供っぽく感じるし、路線は違うが山手線の高田馬場を通るたびに「鉄腕アトム」を聞くと恥ずかしくなる。同じく駒込の「さくらさくら」もソメイヨシノゆかりの染井墓地が近いからだろうが、季節を無視して一年中流すのは如何なものかと思ってしまう。一年中ジングルベルを聞きたい人などいるはずがないではないか。発車の合図は、ビシッとけたたましいベルでいい。うるさいと駅周辺の人からは苦情がくるかもしれないが、だからといって一日中「鉄腕アトム」を聴きながら仕事や勉強できるとも思えないので、なまじメッセージが込められた有名な曲よりは、特別な意味のない、ただの合図に過ぎないベルが相応しいと思うのだが。
 東武伊勢崎線の下を通り、栗橋に向かう。栗橋は東武日光線との接続駅であり、新宿からの日光・鬼怒川温泉行き特急「スペーシア」が東武線に乗り入れる駅でもあるが、快速「ラビット」号はお構いなしに通過して、進路を大きく右に切った。空が大きく広がり徐々に高度を上げていけば、その先は長大な利根川橋梁である。滔々と流れる利根川には大河にふさわしく丈も幅も頼もしい、聳えるような堤防がある。草で覆われた堤防に守られた農家がちんまりと見える。緑はより濃くなり、山並みがより近くに見えてきた。だいぶ関東平野の端に近づいている。橋梁を渡りきると、右に切った行き先を元の方向に戻すために、列車は左に向きを変えながら徐々に高度を下げていく。
かつての貧しかった日本では、建設費のかかる橋梁を造る際には、出来るだけ短くて済むように、大河と直交するように線路を敷いた。だから列車は一旦進路を変えて大きくカーブしながら堤防を駆け上り、渡りきれば再びもとの進路に戻りながら下っていく。これは古い時代に建設された在来線ではどこでもおなじみの光景だ。勿論大河それぞれによって味わいも大きく異なり、そこがまた車窓の楽しみの一つとなっている。
 綿雲があちこちに浮かび、水蒸気をたっぷりと含んだ曖昧な空模様となってきた。次の停車駅古河には高層とまではいかぬまでも結構高い中層マンションがいくつも建っていて、ここがベッドタウンであることを示している。上野からここまでは快速「ラビット」で50分だから、都心へはギリギリの通勤圏なのだろう。駅周辺は開けているが、緑も多く、見事なヒマワリ畑もある。その向こうに薄く広がる山並みと併走する新幹線が見えてくれば、交通の要衝小山である。
 小山には両毛線と水戸線が乗り入れ、新幹線も停まるこの辺りでは有数の駅である。次の小金井に車両基地があって、小金井止まりの中距離電車が走っているのは、昔から上野と小山を行き来する人が多いからであって、これは高崎線の熊谷と籠原の関係と似ている。ところで小山を「こやま」ではなく正確に「おやま」と読める人が多いのは、おそらくテレビCMで「小山ゆうえんちの唄」を聴いていたからに違いない。現在は遊園地も倒産して、跡は更地になったという。ひょっとしてすでに別の施設が出来ているかもしれない。ただ、CMが流れなくなった今、駅名を「おやま」と読める人は次第に少なくなっていくのではないだろうか。新幹線停車駅ではあるが、東京人の多くが利用する速達型のはやぶさ・はやてなどは200キロ以上のスピードで通過してしまい、車内アナウンスで駅名が流れることはない。
それでもこの地方の中核駅だけあって、ホームからこのラビットに乗車してくる人は多い。快速運転はここまでで、この先宇都宮まで各駅停車となる。現在時間は752分、つまり宇都宮までの通勤通学電車になるわけだ。グリーン車内に乗ってくる人はいないが、古河や小山で下車した人が少しいて、残るは13名である。
両毛線のホームは新幹線ホームの真下にあり、しかも高架がかなり高い所に位置するため巨大な柱に囲まれている。その柱には、東日本大震災後の対策だろうか、補強のため夥しい数の鉄筋が10㎝ほどの間隔で巻かれている。頼もしいと言えばその通りだが、実に無骨で物々しい感じがする。これだけのことをしなくてはだめなのかと、改めて地震が来たら怖いだろうなと思う。
 関東平野も端近になると、土地に起伏が出てきて新幹線の高架橋の高さが目まぐるしく変わり、小金井駅脇では小山同様に太く高い柱だが、次の自治医科大駅では柱も細く短くなってホームの跨線橋よりも低いところを走っている。石橋では新幹線が進行右側に移ってしまい、日差しを避けるためにブラインドを下げてしまっているのでわからないが、ちらっと見える柱はそれ程太くないようだから低いままなのだろう。雀宮からは住宅が多くなってきた。あと7分ほどで宇都宮、このグリーン車ともお別れだ。この先本格的に各駅停車の旅となる。宇都宮での乗り換え時間はわずか2分、果たして写真は撮れるのだろうか、次の列車はおそらくすでに混んでいることだろうなと思いつつ、下車の準備に取りかかった。

(走行距離105.9㎞ 1時間29分経過)



東北本線昼景色 第2章 栃木

2.宇都宮8:20 黒磯9:18 1535M クモハ211-3026

 ここから先、グリーン車はない。予想通り普通電車は汚いし、ロングシートのため景色を見るには具合が悪い。しかもクモハだから床下からのモーター音がうるさい。やれやれと思ったが、ひとついいのは、警笛が使い古された機関車の音に似て、美声ではないものの実に渋くて旅情をそそることだ。今日は天気が良く、左側の山並みが見たいので、反対側の日の当たる右側に席を取った。
宝積寺の駅舎は隈研吾設計のモダンな作りである。このような駅を毎日利用できる人が羨ましい。特に駅舎・東西通路の天井に意匠が凝らしてあるのだが、このロングシートからはちらっとしか見えず残念だ。地方で活躍する車両にまでロングシートを平気で採用するJR東日本の姿勢には感心しない。
さて、肝心の山並みは那須岳らしきものが見えるようだが、左側をずうっと走る新幹線の橋脚に阻まれて、噴煙がみえたのか、それとも雲だったのか皆目わからないまま黒磯に着いてしまった。
(走行距離53.8㎞ 50分 通算159.7㎞ 2時間21分経過)
 

 黒磯では30分近く時間がある。架線を流れる電気が直流から交流に切り替わるこの駅に、以前から降り立ちたいと思っていた。ホームを進んでいくと青森側には赤い交直両用の機関車が見える。一方ホーム後方の上野側には直流専用の機関車が控えている。そしてこのホーム辺りの複雑な架線は、直流と交流を切り替えることが出来る特殊な構造になっていて、どちらからも進入可能で、一旦停止してから先へ進むことになっている。
芭蕉が訪ねた頃は白河に関八州と陸奥を分ける関所があったが、鉄道ではこの黒磯が関所であって、青い都会育ちの青い機関車はここから<みちのく>に出て行くことを許されず、<みちのく>で活躍する赤い機関車は行き来自由だが、都会に出ることは限られている。言い方は悪いが、田舎侍と江戸侍を見ているようで面白い。田舎侍の名誉のために言っておくが、交直両用の機関車の方が格段に高価なため、都会側は安価な機関車で済ませているのだとも言える。今日は<みちのく>で一生を過ごす交流専用機関車はいないようだ。
 次の列車までまだ時間があるので、一旦改札口を出て駅そばを食べる。一杯270円の黒々とした掛けそばは、どうということはないものの、冷房で冷え切った体を心地よく暖めてくれてとても美味しかった。その時はわからなかったが、ここで腹を膨らませておいて正解だった。このあと八戸まで食うや食わずの旅が続く。


3.黒磯9:39 10:40郡山 2131M クモハ701-1024

跨線橋を渡り郡山行きに向かう。乗り継ぐ客のことなど全く考えていない感じがする。高価な交直両用電車などは投入する筈もなく、従って直通電車は全くないので、乗客の方が移動するのはわからないでもないが、それにしても不便ではある。乗ってみると1両に156人しか乗車していない。がらんとしたものである。そりゃそうだよね、だってこれから国境なのだものと一人で合点する。この先しばらく行けば、奥州である。それでも5両の堂々とした編成である。堂々としたガラ空きの電車は先程の211系より断然いい感じである。
 黒田原あたりからは新幹線も離れ、周囲の風景が高原風に変わって見晴らしが良くなった。那須岳上空には雲がかかって、相変わらず雲だか噴煙だかわからなかったが、あたりはすっかり夏の装いで気持ちよい。線路は右に左にと曲がりながら高度を稼いでいく。先程から見えなくなっている新幹線はモグラのように地中を驀進しているのだろう。こんな時、改めて在来線の良さを思い知る。カーブが多いとはいえ、そこはかつての特急街道東北本線だけあって、路盤がしっかりして曲線にも大らかさがあり堂々としたものだ。豊原は山中の駅で乗降客なし。次は白坂、いよいよ関東とはお別れである。白坂トンネルでサミットを越え、やや下ったところに白坂駅はあり、ここから福島県となる。
 丘陵地帯が退き、耕作地が広がって右から水郡線が寄り添ってくると安積永盛の駅は近い。更に広大なJR貨物ターミナルを越えて、いわきに向かう国道49号線の陸橋を潜れば郡山駅である。
(走行距離63.4㎞ 61分 通算223.1㎞ 3時間51分経過)







東北本線昼景色 第3章 福島




4.郡山11:06  福島11:54 1137M クモハ701-1516

 昼間の優等列車がなくなった今、まさか抜かれることはあるまいと思っていたが、接続の待ち時間に通り過ぎていったのは高速貨物列車だった。当駅始発ということで発車までまだ4分ほど残っていたが、関東から乗り継いできた者にとって、追い越されたことには違いがない。昼間の東北本線には数多くのJR貨物が活躍している。
 この列車の見所は何といっても安達太良山が綺麗に広がるところだろう。東北本線は奥羽山脈の東側を北上するため、進行左側の車窓に名山が集中する。智恵子抄で有名な二本松の駅には「ほんとの空」という謳い文句が掲げられているが、空の広さを感じるには何もない砂浜よりは裾野の広い山の方が適切のようである。昼近い南からの光を浴びた安達太良山は、東側を回っていくこの列車からは刻々と色が深まって行き、見ていて飽きない。更に柔和な山肌にちょこんと二つのピークがあって、ちょうど形良い女性の胸を想像させる。控えめながらしっかりと色気を漂わせる姿であり、十和田湖に残る高村光太郎の力強さを帯びた裸像とは大分イメージが違うが、これもまた智恵子を彷彿とさせる形なのではないかと思いをめぐらす。安達太良山は別名乳首山(ちちくびやま)という。
いつもながら思うことだが、風景は福島県から輝き出すのだ。人口が少ないから森林や耕作地と家屋の釣り合いがとれてくるし、猥雑な看板がぐっと少なくなる。だからその後ろに控える山並みが引き立ってくる。余分なものがなくなって、そのもの自身がもつ美しさに直接触れることができる。
 福島に近づき坂を下り始めたとき、こんなところが東北自動車道にもあったなと思っているうちにトンネルに突入した。やはりここは東北道南側唯一のトンネルである福島トンネル地点ではないかと思いつつトンネルを出ると案の定、眼下に高速道の急坂が見える。高速を走っているときは長い坂を快調に飛ばす所だが、その上を鉄道が走っているとは全く気づかなかった。ここを抜けると左側に吾妻連峰が見えてくる。今日は列車の乗客なので、吾妻小富士の姿が細かいところまでゆっくりと堪能できた。
(走行距離46.1 48分 通算269.2㎞ 5時間5分経過)

5.福島1200 白石1233 1185M クモハ701-1501

 国見峠が近づいた。内田百閒は東北本線阿房列車のなかで、「大分大きな勾配で、遠景の田圃や川が随分下の方に見え出した」、「高くなった所から、遠くの底の川のある盆地を隔てて、その向こうに空へ食い込んだ山脈が見える。山の姿が私なぞには見慣れない形相で、目がぱちぱちする様な明るい空に、悪夢を追っている様な気がする」と記した場所だ。川は阿武隈川、盆地は福島盆地、そして山脈は吾妻連峰のことである。さすが百閒だけあって、大きな風景の向こうに聳える吾妻の山々をうまく表現しているなと思う一方で、その悪夢のようだ評した吾妻連峰に、一切経山や浄土平という霊験あらたかな有り難い場所があることを百閒が知ったら、あの偏屈先生、一体どんな言い訳をするのだろうか。
 それはともかくこの風景はもちろん新幹線では見ること叶わない。東北本線と併走する東北自動車道からは見ることができる。かつて車を運転して峠に取りかかった時、それまでスコールのような雨の中を走っていたのに、上り坂になって急に晴れ渡ったことがあった。夕暮れ近づく西からの日差しが峠に差し込んで、見事な虹が山麓から峠上空に向かって亙っていった。その虹に向かって車を走らせる快感は実に忘れがたい。ただ雨上がりの高速の峠越えだけに、ゆっくりと堪能するわけにはいかなかった。同乗する妻は、ずうっと見とれながら感嘆の声を上げている。その声を悔しく思いながら、やはり風景は鉄道に限ると思わないではなかった。
 白石までのローカル電車は相変わらずのロングシートで、わずか二両編成のワンマンカーには大勢の地元の人達が乗っている。伊達、桑折と律儀に停まるたびに人が降りていく。もともと景色を楽しむために乗っている人など皆無なので、ロングシートから車窓を眺めるのには随分と気を遣わなければならない。見たいとなったら、あっちもこっちも見たくなるから、必ず誰かと視線があってしまう。峠が近づいた時、視線があってしまったその男性は、iPhoneを見ながら髪の毛をいじっていた。見過ぎちゃいけないと控えつつ、「不潔な奴だなあ。どうして電車の中でふけなど落としているんだ」と憤っていても、なかなかやめようとしない。こうなると百閒先生も虹の架かる峠も台無しである。電車は次第に高度を上げていくが、そんなこととは無関係にスマホ片手にふけ落としは続いている。男にとって見れば日常のことかもしれないが、こちらは35年に1度の大切な時なのだと思ったとき、おや? 髪の毛掻きむしっているんじゃない! じっとiPhone見つめながら顔の向きが左右に回転し、髪の毛を触っている。ここで気がついた。男はiPhoneに自分の顔を写しながら髪の毛を整えていたのである。掻きむしっていたのではなく、手櫛だった。スマホを鏡がわりに使う人を初めて見た。
気づいた時には電車は軽やかに坂を下り始めている。すでに峠は越えたのだった。というわけで、今回の旅の中で国見峠の印象はすこぶる薄い。
 (走行距離34.0 33分 通算303.2㎞ 5時間44分経過)