2017年5月15日月曜日

近鉄物語② しまかぜ乗車記

 お出迎えのアテンダントに導かれ、そのままステップを上がって車内に入ると、総革張りシートの匂いがぷーんと漂い、私の鼻腔を充たした。おお、豪華列車だ! 綺麗に磨かれた大きな窓からは柔らかな光が差し込み、通路を挟んで左側2列シート、右側単独シートが前方に向かって並んでいる。その先には運転室越しに前方風景が広がっている。
展望車両


 ”最高のおもてなしで、伊勢志摩へ”をコンセプトに平成25年にデビューした観光特急しまかぜは、確かに乗車した瞬間から旅人の心を掴んでくる列車だった。先頭車両の3列目単独シートに腰を降ろすと、身体を包み込むようなプレミアムシートが快い。シートピッチは広く、ふくらはぎを支えるレッグレストや背もたれが電動で動くことは当然のこと、何と驚くべきことに背もたれにエアークッションが装備されていて、腰を揉みほぐしてくれる電動マッサージ付きなのだ。知り合いの新車に乗せて貰って、「ワー、凄いね!」とあれこれ触ってはしゃぎ回る感覚を、電車で味わうのは初めてだ。
 今年はJR東日本が TRAIN SUITE 四季島を、JR西日本がトワイライトエクスプレス瑞風をデビューさせ、すでに人気のJR九州のクルーズトレイン「ななつ星 in 九州」とともに日本列島を豪華列車ブームが席巻する勢いだが、如何せん高倍率と高額運賃の二重苦によって、市井の鉄道愛好家には縁遠いものとなっている。だいいちこれらの列車は、市販の時刻表には掲載すらされいないのだから、お召し列車や団体列車と同じ特別な列車であり、一般人には無関係だ。
 その点しまかぜは、時刻表にもきちんと掲載され、料金も通常の近鉄特急に700円から1,000円のしまかぜ特別車両料金が加わるだけという実にリーズナブルな料金設定なのである。近鉄名古屋から賢島までを近鉄特急を利用して3,480円で行くか、それとも1,000円プラスして4,480円でしまかぜに乗るか。このプラスは絶対のお値打ちである。それだけに人気は高く、現在近鉄名古屋、京都、大阪難波から賢島まで、それぞれ1往復(水曜運休)ずつのため予約は早めにする必要がある。お金のことでいささか品のない話になってしまったが、要は庶民にも手が届く豪華列車だということを強調したかったのである。
 余談だが、JRはこの観光特急を相当意識したのではないかと、私は密かに睨んでいる。今年デビューの両列車の名前の最後の文字をつなぎ合わせてみよ。「島風=しまかぜ」になるではないか。私はこれが偶然だとは思わない。響きの良いことばは誰もが真似したくなるものだからだ。無論、近鉄特急の方は、志摩に吹く爽やかな風がコンセプトであり、オリジナルな命名と言える。JR東日本と西日本は、JR九州の成功を追いかけているので、ネーミングについては枕詞をつけるところから二番煎じを否めない。あまり批判が過ぎると、乗れない僻みだろうと思われそうなので、ここでやめておく。
大阪難波行しまかぜ
大和八木にて (5/13撮影)

 席に着いてしばらくすると,エプロン姿のアテンダントがおしぼりとメニューを持ってやって来た。お楽しみの時間の始まりだ。赤ワインと摘みになりそうなものが数多く詰まった特製幕の内弁当を注文する。
 しまかぜに限らず、線路幅が広い標準軌の近鉄はとにかく揺れが少なく乗り心地が良い。特に特急が頻繁に走る区間の保線状況は抜群で、おそらく日本随一だろうと思われる。その上更に、しまかぜには横揺れ防止装置が搭載され、不快な揺れを抑えている。こうしてワインを楽しみながら流れる風景を眺めるという上質な時間が過ぎていく。
御影石を敷き詰めた
エントランスの床 

 車窓の風景とは、乗る列車によって全く異なるものだ。普段乗り慣れている区間でも、通勤電車から見る景色と特急列車から見る景色とは違って見える。見る角度、見ている高さ、窓の大きさとその透明感、列車の揺れ方、それに同室している乗客達の様子。混んでるか空いてるかでも違ってくる。風景は目だけで見ていると思いがちだが、実は五感すべてを使って感じるものなのである。豪華列車が持て囃されるのも頷ける。

 そんなことを考えているうちに大和八木を過ぎ、両側からは新緑の山々が迫ってくる。長谷寺や室生口大野を過ぎれば、もう三重県に入っている。
展望車両通路からの眺め

 先頭の展望車両の良いところは、運転手気分で迫力の前方車窓が楽しめることだ。ただそれはあくまでも鉄道好きの言い分ではないかと思う。前方風景というのは案外に無個性なものだと、長年見続けて感じるようになった。線路や信号、標識。それにトンネルや鉄橋の形はよく分かるのだが、そればっかりが気に掛かって、どのような土地にどのような人が住み、どのような田畑があったのかなどということは全く印象に残らない。鉄道の施設はどこも似たようなものだから、結局何に乗っても同じということになる。それに対して、側面の車窓からは屋根瓦の違いや田畑の作物の種類や生育状況などその土地の人々の暮らしぶりが目に飛び込んでくる。遠くの山を眺めるのにも都合が良い。これが実に面白い。今回坐ったシートは、前方と側面の両方が見渡せるスペシャルシートだった。前方からは乗ってみたい近鉄特急が迫り、側面には新緑の伊勢地方が満喫出来るというわけだ。
しまかぜは6両編成。展望車に乗れ
なくても、カフェ車両(後方ブルー
の3号車)に行けばよい。    

 布引山地を青山トンネルで抜けると、川の流れが逆になって、長い下り坂を伊勢湾に向かって滑るように快走し始める。伊勢の神様にお仕えする斎宮が住まわれたところは、現在さいくう平安の森として整備されている。車内アナウンスで左側車窓にそれが現れると告げられた。鉄道の旅ばかりをしていると、観光がお留守になるので、行ってみたい場所ばかりが増え続ける。これが困りものではある。
賢島駅にて

 伊勢神宮を訪れる人達が、伊勢市や宇治山田で下車していく。神様には大変申し訳ないが、「えっ!降りちゃうの。勿体ないなあ」と心の中で思う。真珠や水族館で有名な鳥羽で降りる人もいる。「賢島まで乗っていればいいのに」とここでも思う。結局賢島まで通しで乗っていたのは半数に満たなかったが、そもそも彼らは列車の旅が目的ではないのだから当然のことだ。私とは目的が違うのである。旅先では私が異端者なのだ。それは充分分かっているのだが、それほど快適な移動を約束してくれるのが観光特急しまかぜだということは、ぜひ書き残しておきたい。
(2017/5/15乗車)

2017年5月13日土曜日

近鉄物語① 生駒を越える

ロープウェイは鉄道か

 総延長501.1㎞。近鉄の全営業キロ数は民鉄日本一を誇る。時に502.5㎞と示されることがあるのは、葛城ロープウェイ1.4㎞を加えるか否かで計算が異なるためである。
 ロープウェイは鉄道ではないでしょうと多くの人に言われてしまいそうだが、501.1㎞には生駒山と信貴山にあるケーブルカー3.3㎞分が含まれている。ケーブルカーも鉄道ではないとすれば、全営業キロ数は497.8㎞となり、数字的にはちょっと残念なことになる。だからと言って、(株)近畿日本鉄道が、景気付けのためにケーブルカーを無理やり鉄道に含めたのだという訳でもない注1
生駒ケーブルは二本のケーブルが
並行しているため、中間地点は複
々線。途中踏切まであり、道路に
切られた溝をケーブルが流れる。
右側の宝山寺2号線は普通の車両。

そもそもケーブルカーは2本のレールの上を走るのだから鉄道でいいじゃないかという「常識」を認めてしまうと、モノレールやリニア新幹線は鉄道ではなく、ジェットコースターの多くは鉄道になってしまう。遊園地の乗り物は私有地内だから除外し、自動車と違って軌道によって制約されるのが鉄道だとすれば、やはりロープウェイは鉄道に含めないといけなくなる。だんだん厄介なことになってきた。 日本全国の鉄道を乗り尽くそうという<高邁な?>目標に向かって生きる私にとって、ロープウェイの件は出来れば避けて通りたい問題である。というのも、それを含めるとハードルが一段と高くなるからだ。大抵のロープウェイは険しい山奥にあり、しかも数が多く、そこへは車を利用しなければ行けない。鉄路愛好家にとって、レールすらない乗り物に乗るために、わざわざ鉄道以外の乗り物で出掛けるというのも、決して愉快な話ではない注2
強烈なイメージの宝山寺1号線
  通称「ブル」の背後に踏切を横
断する人がいる。      

 ということで、ケーブルカーは「責任」をもって乗ることとするが、ロープウェイは勘弁して欲しいというのが、このブログでの鉄則にしたいのである。

 前置きが長くなった。とにかく近鉄は総延長501.1㎞の大鉄道会社であり、JR四国855.2㎞に次ぐ日本で7番目の鉄道会社なのだということを確認したかったのだ。それだけに乗り所満載であり、乗り尽くし旅では多くの発見もあった。今回は生駒山と近鉄の話。


注1)鉄道事業法が扱う事業は、鉄道事業と索道事業のふたつであり、ケーブルは鉄道、ロープウェイは索道に分類されている。だから、ロープウェイは鉄道事業ではないが、鉄道のようなものとは言えそうだ。
注2)私自身は手軽に絶景が楽しめるロープウェイそのものは大好きだし、車の運転も嫌いではない。ただし、鉄道らしくないものを、ただ制覇するためだけに車で出掛けるのは、鉄道愛好家としては望まない。


生駒山をめぐる(めぐらない)物語

 四方を山や丘で囲まれた奈良盆地は、古代の人々にとっては天然の要害に囲まれた心安らぐ土地であったに違いない。古代王朝が、美しい山に囲まれつつも猫の額ほどしかない飛鳥の地を抜けだし、唐の侵攻を恐れて近江の地に都を移したりしながら、その後も平城京に移った歴史を見ていると、何とも臆病な日本人の心性が透けて見えて、いとおしさすら感じるようになる。もともとそんな国民性なのである。
 さて「国のまほろば」である奈良へ大阪から向かうなら、近鉄奈良線が早くて便利だ。近年JRも頑張ってはいるが、近鉄には到底太刀打ちができない。それは、奈良街道の歴史と無関係ではなく、聖徳太子にも関わる歴史的経緯がある。
 大阪府と奈良県の間には、標高642㍍の生駒山を主峰に東西30㎞を越える生駒山地が連なっている。傾動地塊と呼ばれる地形は、断層面がむき出しになった大阪側は切り立った崖となって立ち塞がり、奈良側はなだらかな傾斜地である。どちらからにせよ生駒越えは楽ではない。
 楽をしたけりゃ、迂回すればよい。生駒山地の南外れを流れる大和川に沿って、竜田越えの奈良街道がある。それでも途中亀の瀬と呼ばれる渓谷を通らなければならず、古来地滑り地帯として悩まされているが、ここを通って難波津と行き来したのが聖徳太子だった。古代の貿易港である難波津付近に四天王寺を建立した聖徳太子は、のちに斑鳩の里に法隆寺を営む。関西に住まない私にはピンと来なかったが、どうして法隆寺が飛鳥や奈良市内から遠いところにあるのかが、漸く納得できた。斑鳩は大和の国にあって、外国に一番近い土地柄なのである。大和川沿いの奈良街道の先は難波津を経由して百済や唐に続いていた。
 行き来の盛んなこのルートに、大阪と奈良を結ぶ最初の鉄道が建設されるのは当然のことだった。それが現在のJR関西本線(大和路線)であり、開業は1892(明治25)年のことであり、日本の鉄道としても古い。その後、京都と奈良を結ぶ現在のJR奈良線が1896(明治29)年には開通し、翌々年には京橋と木津を結ぶ片町線(学研都市線)も通じて、生駒を避ける鉄道路線網が完成した。

 大阪と奈良を直線で結ぶにはどうしたらよいか。明治の人の答えは、立ち塞がる生駒を鋼索鉄道、つまりケーブルカーで克服することだった。ようやく近鉄の出番だ!
 1910(明治43)年9月設立の奈良軌道が10月に大阪電気軌道(以下、大軌)と名称を替え、それが今日の近鉄の前身となるが、それはさておき、土木工事がまだ未熟な時代のことであり、生駒山地のなかでも比較的標高の低い暗峠(くらがりとうげ)までケーブルカーで登ろうと考えたという。
 暗峠は生駒山に比べて190㍍ほど低い455㍍、現在は国道308号線が目立った九十九折りなどもなくほぼまっすぐに設置されている。そもそも自動車と鉄道とでは登坂能力が全く異なる。ざっと計算して、350㍍ほどの標高差を1.8㎞で登らなければならないから、194‰(パーミル、千分率のこと。19.4%と同じ)ほどの登りとなる。アプト式で有名な碓井峠のほぼ3倍であり、ケーブルカー以外の選択肢はない。車にとっても暗峠は難所で、車が通れる道としては現在日本で最も急な坂に認定されているのだそうだ。最大斜度37%というから気が遠くなる。ガードレールがないところもあるので運転初心者は絶対にやめた方がよいという。そう言われるとよけい行ってみたくなるが、今は鉄道の話。
 大阪と奈良を結びたいという願いは、風景を楽しむ旅人の為にあるわけではない。そこで莫大な工費が予想される生駒トンネルを掘ろうという英断が下され、1914(大正3)年に上本町と奈良が結ばれることになる。今でこそ生駒周辺は住宅街となり、その先の学園前は近鉄きっての高級住宅街が広がって、数多くの乗降客で賑わうが、建設当時に利用するのは生駒聖賢宝山寺の参拝客ぐらいで、雨天の日には閑古鳥が鳴いていたという。そのため、大軌は倒産寸前となり、トンネル施工会社の大林組も連鎖倒産寸前までいったようだ。今の繁栄をみると想像すらできないほどだが、結果としてこの路線の成功が今日の近鉄を作ったと言える。
 トンネル掘削技術が発達したとはいえ、近鉄は現在生駒に2本の複線トンネルをくり抜いている。関東の私鉄で長大トンネルを持つのは西武鉄道秩父線しかないが、それも単線である。近鉄がいかに大きな鉄道会社であるかを物語るエピソードだ。

大軌の始発駅だった上本町

 大軌の始発駅として誕生した上本町は、現在7つのホームが6本の線路を挟み込む形の終着駅で、その形状から7面6線の櫛形ホームと呼ばれている。地下には更に2面2線のホームがあって、そちらは難波・三ノ宮方面に繋がっている。
 東京人にとって関西私鉄の終着駅は憧れの的だ。広々かつ堂々としていて停車場にふさわしい華やぎある。欧米では当たり前の行き止まりとなった櫛形ホームが、鉄道を単なる移動手段ではなく、旅の始まりと終わりを演出する舞台装置として人々の心に旅情を醸し出してくれるのだ。改札口の向こうにずらりと並んだ列車を眺めていると、それぞれの行き先はどんな所なのかと想像力をかきたてられる。かつての上野がまさにそのような場だったが、今ではわずか3面5線と控えめになり、上野東京ラインが完成してからは、ますます高架線を通過する列車が多くなって、櫛形ホームは存在感が希薄になった。
 ここ上本町も1970(昭和45)年に難波線が開通し、近鉄の終点が大阪難波に移ってからは、上本町は大阪上本町と名前を変え、大部分の特急と奈良線電車が地下駅を通って大阪難波まで行くようになった。そのため当時の華やかさはなくなったというが、関東人から見れば驚くほど堂々としたターミナルだ。今でも伊勢志摩への特急の一部と大阪線の全列車はここが始発駅だ。ということで、生駒を「迂回する」列車の始発駅ということになる。

ミナミの地下駅、大阪難波

 一方で大阪ミナミの中心に位置する大阪難波駅は、千日通りの地下という限られた空間に位置するところから、わずか2面3線の手狭なターミナルだ。2009(平成21)年に阪神なんば線が相互乗り入れするようになってからは、神戸・大阪・奈良が結ばれて、電車が一日中目まぐるしく発着を繰り返す、さらに活気に満ちた駅になった。
 その一端を最も本数の多い平日の10時台に見てみよう。この時間帯は20本の列車が名古屋・伊勢志摩・奈良方面に発車していく。
 近鉄といえばまず特急。人気の高い豪華な観光特急しまかぜを含む4本が、専用の1番ホームから発車する。専用といっても特別なしつらえがあるわけではない。ホームは奈良方面に向かう2番線と共用なので、終日観光客と通勤・買い物客でごった返している。残りの16本は2番線からの発車だ。当駅始発は奈良行急行3本と大和西大寺行普通と区間準急が4本の計7本あって、残りの9本は阪神線からやってくる。中でも神戸三宮と奈良を結ぶ快速急行3本は、この路線の花形で、ほぼ特急と同じ時間で奈良まで行くことが出来るお値打ち電車。それに尼崎始発の普通電車6本が加わって、合計16本となる。
 これだけの数の列車をさばくには、当駅始発をホームで折り返させる訳にはいかない。乗務員の交代にも時間がかかるからである。そこで奈良方面からやってきた特急以外の電車は3番線に停車し、そのまますぐに神戸方面に向かってホームを出て行く。敷地が広ければ、その先に何本もの引上線が用意され、そこで支度を調えてから2番ホームにもどればスムースに事は運ぶはずだが、ここはミナミの繁華街の地下。隣には地下鉄千日線が並行して走っていて、引上線は1本しかない。そこで、一駅先の阪神電鉄桜川駅のそのまた先に近鉄用の引上線2本を設置して、ここで折り返しているのだ。
 実は鉄道ファンにとってはこれがたまらなく面白い。異なる会社間を列車が通過する際には境界駅で乗務員の交代が行われるのが通例だ。東海道・山陽新幹線では新大阪駅で乗務員の交代が行われる。もちろん列車が境界駅に停まらない場合にはこの限りではない。北陸新幹線の場合、JR東日本と西日本の境界駅は上越妙高だが、停車駅数の少ないかがやきは停車しないので乗務員の交代は長野駅で行われる。ところが近鉄と阪神の間では桜川駅で乗務員が交代するのだ。つまり近鉄の乗務員は阪神線内に踏み込みつつ、阪神の乗務員は自社の路線でありながら桜川・難波間の運転はしないということになる。こうすることで、近鉄電車は桜川の引上線でスムースに折り返し、パンク寸前の近鉄難波駅は始発駅としてうまく回っているのである。
 なお、大阪難波発の尼崎・神戸三宮方面の電車は早朝の1本のみ。この場合、わずか1駅区間を阪神・近鉄どちらの乗務員が運転するか、不覚ながら確認してはいない。ただ常識的に考えて、近鉄の方と考えるのが自然だろう。

生駒トンネルを目指す

 大阪難波を出発した難波線電車は、次の近鉄日本橋・大阪上本町までは千日通りの地下を走り、奈良線と名称を変えて鶴橋の手前で地上に出る。上本町からの大阪線と合流して鶴橋に到着。鶴橋はJR大阪環状線との乗換駅で賑わっている。焼肉の聖地と呼ばれるだけに風向きによっては高架下から食欲をそそる香りが漂ってくるというが、残念ながら風は吹いてなかった。ここから先は布施までの3駅が複々線区間となる。
 布施駅は大阪線と奈良線が分かれる大がかりな駅で、2階に大阪線、3階に奈良線となっていて、それぞれの上下線外側には通過用の線路が設置されている。つまり各階4線あるという贅沢な造りだ。ちなみに首都圏で方面別にホームが上下に分かれている駅は、京成の青砥駅(本線と押上線)と京浜急行電鉄の京急蒲田駅(本線と空港線)、京王の調布駅(本線と相模原線)の三つだが、どれも通過用線路はなく複線構造である。とにもかくにも、電車がスムーズに走れる工夫が随所にあって、大阪の私鉄はファンにはたまらないし、利用者本位なのだといえる。ただ一つ注意すべきことがある。布施駅は急行通過駅のため、大阪線と奈良線とを乗り換える場合、ここで乗り換えると急行に乗れず余計に時間が掛かってしまう場合があるのだ。その場合は、鶴橋まで行って戻ってきた方が良い。そうすれば急行から急行に乗り継ぐことが出来る。そのようなことわからないよという人は、スマホの乗り換え案内の指示に素直に従おう。
奈良方面への特急は、夕方から夜
にかけて運行される。生駒駅にて

 鶴橋から先、ビルや住宅が建ち並ぶ町並みの中を高架線を行く。布施で名古屋方面の大阪線が生駒を迂回するために右に分かれて行き、前方に横たわる生駒山系が奈良との間に大きく立ち塞がっている。高校ラグビーの聖地、花園ラグビー場がある東花園には、近鉄の東花園車庫があって日中ならば多くの近鉄電車が停まっている。それらを左に眺めながら行くと瓢箪山駅に着く。ひたすら東進するのもここまでで、ここからは北へ90度進路を変え、石切駅までの3㎞は36‰の急勾配で高度を稼ぎ、少しでも生駒トンネルを短くしようという涙ものの区間だ。鉄道を愛好する者は、こういう区間では目が離せない。見晴らしの良い絶景区間だからだ。大阪から奈良へ行く際には、是非進行左側の車窓に注目してほしい。
京阪奈線は架線のない第三軌条の
地下鉄仕様。生駒トンネルを抜け
て地下鉄中央線に乗り入れ、大阪港を目指す。      

 斜面に住宅が張り付き、大阪の街が広がる。どこからもすぐわかる「あべのハルカス」はここでも天王寺の街の方向を教えてくれる。眼下に見える高速道路は、生駒山を抜けて大阪城の脇までひたすら西進する阪神高速東大阪線だろう。実はここにはもう一つの近鉄線、けいはんな線が走っている。けいはんな線の生駒トンネルは、奈良線のものよりももっと長いが、それだけに車窓は面白くない。何本も生駒トンネルを掘ることが出来る近鉄の凄さだけを指摘しておく。
 石切駅まで来ると、生駒山系はすっくと立ち塞がっている。このままトンネルを抜ければそこはすでに奈良県生駒である。古都奈良はもう目と鼻の先だ。
(2017/5/13・5/15乗車)


2017年4月5日水曜日

今も現役の軽便鉄道、三岐鉄道北勢線

 昭和30年代以降、日本中から次々と姿を消した軌間762㎜の軽便鉄道。三重県には今も二つの会社3路線が残っている。その一つが、三岐鉄道北勢線だ。
 近鉄・JRの桑名駅から少し歩くと、遊園地で見るようなかわいらしい線路に出会える。ここが西桑名駅だ。終点阿下喜まで20.4㎞、ローカル線の旅が始まる。

西桑名駅

 ホームに停まっていた黄色い電車は、近鉄時代に造られた270系と呼ばれるタイプ。車幅は狭いけれど、縦長の顔で、載ってみると意外に広い。というのも天井が高く、車長も15mあって、なかなか本格的な通勤電車だ。

阿下喜行
 それでもいったん走り出すと、車体は小刻みに激しく揺れ、モーターが豪快な音を響かせる。旧式な吊り掛け駆動だ。年配の人には懐かしい電車だろう。4両編成でありながら、ワンマン運転。乗り心地としては、都電の荒川線に似ている。保線の悪い(失礼!)専用軌道を突っ走る感じ。

東員駅にて

東員駅で、向こうからやって来たのは同じ270系。車体に比べてやたらとパンタグラフが大きい。改めてサイズが小さい軽便鉄道なのだなと痛感する。

大泉駅にて

 続いて大泉駅で擦れ違ったのは、200系電車。三重交通時代に造られた旧4400形だから旧タイプの電車である。湘南電車型の瀟洒なデザインで、かまぼこ形の270系とはひと味違う。

終点阿下喜

 北勢線は員弁川(いなべがわ)沿いの田園地帯を鈴鹿山脈に向かって進む路線で、比較的住宅が多いものの、沿線に大きな町はない。何度も経営母体が変わり、多くのローカル線を抱えた近鉄からも見放されて、今は地元自治体の援助の下に、三岐鉄道が経営している。この先、車両の交換時期が来たとき、存続できるかどうかの正念場となろう。中古の軽便鉄道用車両など、どこにもないからだ。 
 終点阿下喜は、駅前周辺も含めて綺麗に整備された駅だ。隣接して、軽便鉄道博物館があるが、平日のため閉館。かつて遣われたターンテーブルや近鉄時代の塗装を身に纏った220系電車があった。これはもともと戦前の車両で、整備復元されたもの。

モニ226の塗装は近鉄時代のもの

(2017/4/5乗車)

【付記】
 沿線風景で印象的なのは、次第に近づいてくる藤原岳。石灰岩の山だ。三岐鉄道三岐線は、ここの石灰岩輸送を目的とした貨物輸送のために建設された鉄道である。当初北勢線を延長して石灰を運ぼうという計画もあったようだが、間を流れる員弁川とその先の河岸段丘に阻まれて断念し、そのかわりに三岐線は建設されたという。今も石灰岩を載せた貨物列車が三岐線を走る。北勢線は、その三岐鉄道に吸収されたという歴史がある。

藤原岳の麓に広がる濃い緑が員弁川の河岸段丘。
その大地の上に、太平洋セメント藤原工場があり
その一角に三岐鉄道の東藤原駅がある。    
(阿下喜駅付近からの景観)

2017年1月1日日曜日

総合索引

地域別索引


北海道

被災地仙石線を訪ねて(2014/10/2)
東北本線完乗記(2014/10/2) 
被災地気仙沼線を訪ねて(2015/7/1) 
こちらにお座り下さい…東北新幹線篇(2017/7/24) 

関東


甲信越

東海

餃子と試練と豊橋鉄道(2015/7/23)
森の鉄道 リニモ(2016/9/25) 
東海道線 もう一つの終着駅(2016/12/28) 
給水塔とタブレット(2016/12/28) 
今も現役の軽便鉄道 三岐鉄道北勢線(2017/4/5) 
明治の鉄道遺産めぐり(2017/12/20)
これも鉄道です(2019/9/10)


北陸

スイッチバック讃歌(2011/8/17) 
鉄道王国の新世代路面電車(2014/10/1) 
コミック列車の似合う町(2014/10/1) 
福井の鉄道 これぞ日本のStadtbahnだ!(2015/8/5) 
福井の鉄道 恐竜王国篇(2015/8/4) 
高熱隧道を行く<全3話>(2018/5/30)
これも鉄道です(2019/9/10)


近畿

ぐるっと紀伊半島ひとめぐり(2015/4/2) 
副業が鉄道会社!?(2016/12/29) 
近鉄物語① 生駒を超える(2017/5/13)
近鉄物語② しまかぜ乗車記(2017/5/15)
近江鉄道、車窓の景色が宝物!?(2017/12/22)
鉄道会社はお寺さん(2018/5/9)

山陽

改造電車が走る町(2015/1/6) 
100万都市の路面電車(2016/1/6)
中国山地の「癒され列車」(2016/1/5)
これも鉄道です(2019/9/10)


山陰

おろちループとスイッチバック(2011/1/6) 
スイッチバック讃歌(2011/1/6) 
懐かしの山陰本線<全3話>(2015/1/5) 

四国


九州

関門海峡今昔物語(2015/1/6) 
世界で一番すてきな通学列車(2017/8/23) 
山岳鉄道の魅力あふれる肥薩線(2017/8/23) 
鉄道遺産としての肥薩線(2017/8/23)
最果ての駅 九州編(2017/8/22) 

海外






テーマ別索引


JRアルバム

民鉄アルバム 

松本電気鉄道上高地線(2014/4/1)  
高松琴平電気鉄道(2016/8/24)  
今も現役の軽便鉄道 三岐鉄道北勢線(2017/4/5)  




 <ラベル凡例>


コンテンツは次の通りです。

乗り尽くし(シリーズ):このブログのメインテーマです
昼景色(シリーズ):車窓風景を楽しむ旅です
山岳鉄道(シリーズ):私は山岳鉄道愛好家です
終着駅(シリーズ):お気に入りの駅をご紹介します
博物館(シリーズ):保存鉄道施設をご紹介します
旅のノート:自分への備忘録です。ご参考までにどうぞ
こちらにお座り下さい:景色を楽しみたい方へのご提案です
※今後ラベルは変更されることがあります

※スマホ版はラベルが表示されません

2016年12月29日木曜日

副業が鉄道会社!?

「日本一最短のローカル線」

 和歌山県の御坊市を走る紀州鉄道の本社は東京にある。それだけでも珍しいが、会社のルーツは福島だという。この会社の実態は「上質なる余暇を通じて、共生の未来を創造する」ことをポリシーとするレジャー産業なのだ。経営するホテルの多くは紀州鉄道の名前を冠していて、鉄道会社であることが信用をもとになっているのだという。だからこのローカル線は、レジャー産業の鉄道事業部門という位置づけになる。何となく奇妙な感じもするが、日本民営鉄道協会に所属する歴とした鉄道会社でもある。日本一最短の鉄道というキャッチコピーも気になるところだ。和歌山から更に紀勢本線で1時間掛かる御坊を訪ねてみた。

 乗ってみて、まず運賃がとても安いことに驚いた。わずか2.7㎞しかないとはいえ、今どき180円というのはきわめて良心的ではないか。ほとんど誰も乗っていないのに、まるで儲ける気がないのでは、とすら思えてくる。
 その代償として、車両はお世辞にも綺麗とは言えない。スピードも遅く、御坊駅を出たすぐのカーブで、いきなり15㎞/h規制がかかる。踏切をノロノロと通過するので、待っている自動車の運転手はさぞイライラしていることだろう。
波打つ線路と歩く人
(中央、線路脇の日陰
を歩いている) 

 直線区間に入って若干スピードをあげるが、20㎞/h規制区間が随所にある。それでもディーゼルエンジンのうなる音は相当なもので、それ以上に縦横の揺れが激しい。運転台越しに見える前方の線路を見れば納得もいく。草に覆われ枕木の見えない線路が波打っているのである。その線路道を人が歩いている。ここまで野趣に富んだ鉄道も珍しい。
 沿線最大の駅は紀州御坊駅である。ここには車庫があって数両のディーゼルカーが停まっているが、途中に列車の交換施設は一切ないから、全線で走る列車は常に1編成に限られる。従って、踏切遮断の表示灯以外、信号に関わる設備はまったくなかった。
西御坊駅入り口側

 終点の西御坊は実に凄いとしかいいようのない駅だった。踏切に接したきわめて狭い土地に、古風なといえば聞こえはいいが、真っ黒な、まるで小屋のような駅舎に、申し訳程度の狭いホームが付いている。幅50㎝もないくらいだろうか。待合室からいきなり列車に乗るという感じだ。
西御坊駅裏側

 さらに反対側がまた凄い。車止めと列車が接しているばかりでなく、駅構内に立ち入ることを禁止するゼブラに塗られた横板までもが列車に接している。停車には相当神経を使うだろうと思うものの、通常の運転自体が徐行しているようなものだから問題ないのかもしれない。要するに、人家に列車が飛び込んでいるかのような、庶民の生活感あふれる鉄道なのである。

 紀州鉄道の前身、御坊臨海鉄道時代にはさらに700m先まで線路が延びていた。平成元年に廃止された後も線路は放置されたまま残っているので、今でも走らせられそうだが、よく見ると、車止めから10m先の小さな川の部分だけは線路が撤去されていた。
 どう見ても超赤字ローカル線だが、不思議と廃線の噂はない。親会社が紀州鉄道という名前を手放したくないからだというが、如何なものだろう。ただできうる限りお金を掛けず、切り詰めた経営で存続を図っていることだけは間違いない。今後ますます速度規制区間が広がるかもしれないが、できる限りの延命を願うばかりである。
(2016/12/29乗車)

  注)芝山鉄道は2.2㎞で紀州鉄道より500m短い。ただし全列車が京成乗り入れで自社車両もない。

2016年12月28日水曜日

給水塔とタブレット

運転再開を果たした名松線

 今年の3月、およそ6年半ぶりに名松線が全面復旧した。旧国鉄の赤字ローカル線として第2次廃止対象路線に選ばれながら、代替道路が未整備だったために一旦は廃止を逃れたものの、2009年の台風18号によって数十箇所で土砂崩れや路盤流失が起こり、家城・伊勢奥津間が運行停止になっていた。地元住民や自治体の粘り強い努力が、JRを動かしたといえる。喜ばしい限りだ。ぜひとも乗らなければならない。一度乗ったからと言って、地元経済には雀の涙ほどにも利益を落とせないが、思いだけは伝えることができるだろう。

 紀勢本線の松阪を起点とする名松線。松が世界ブランド「松阪牛」の松阪であることは誰にでもわかるだろう。それでは名は? 名古屋のはずもなく、答えられる人は地元の方以外は少ないのではないか。正解は名張、近鉄大阪線の特急停車駅だ。近鉄が松阪と名張をすでに結んでしまっているので、名松線を完成させる意義は全くなくなってしまった。廃止対象となったのも仕方ないことだったのである。
 今回復旧した家城・伊勢奥津間は美杉町という名からもわかるように、杉の美林が自慢の土地だ。当然産業の中心は林業である。伊勢八知駅のそばには大きな貯木場があるが、それを鉄道が輸送することはない。手間の掛かる貨物輸送を鉄道がやめてしまった結果、地域の鉄道そのものも役目を終えてしまったのだ。
長いホームも今は無用となった

 山のあちこちには伐採され、植林前の禿げ山のように見えるところもある。急斜面だから豪雨の際は深刻な土砂崩れも多いことが伺える。雲出川の川原には、大きな石がゴロゴロしていて、穏やかな今日は景色を楽しむことができるが、一旦雨が降り出すと濁流となることが手に取るようにわかる。そうこうするうちに終点の伊勢奥津に到着する。最後まで乗車してきたのはわずか3名だった。
現在貯水タンクは
興津駅のシンボル

 終着駅の伊勢奥津には今でも蒸気機関車時代の貯水タンクが残っている。かつてはここで機関車の付け替えが行われ、多くの木材が運び出されたことだろう。住民センターと兼用の駅舎や隣接する観光案内施設は、杉をふんだんに使った瀟洒な建物だ。案内所を訪ねると、お茶でもてなしてくれた。1日の乗客が30人に満たない伊勢奥津だから、旅行者は大歓迎なのだろう。お返しに素朴な饅頭と名松線グッズのメモ帳を購入した。案内所内には、貯水タンクをモチーフとした水彩画が飾られていて、その絵葉書も売られていた。

 折り返しの松阪行に乗り込み、列車が出発をすると、先程お茶をご馳走してくれた人達が駅舎の窓から旗を振って見送ってくれている。「また来てね」と書かれているが、残念ながらまた来ることはないだろうなと思う。全国を廻ろうとしている鉄路の旅人は、その土地の経済には何の役にも立たない。申し訳ないと思う。

 家城まで戻ってきた。ここで列車は交換する。名松線は全線単線であり、本数も少ないことから自動信号機が使われているわけではない。今では全国でも珍しくなったタブレット(通票)の交換が行われる。
交換する下り列車が到着

 まず伊勢奥津からの上り列車が到着する。駅員はスタフの入ったキャリアを運転手から受け取る。家城・伊勢奥津間は1列車しか入ることができないので、その通行許可証がスタフとよばれるものである。これは当然1つしか存在せず、下り列車が到着すれば渡される。
駅員が通票の入ったキャリアを
運んでいる         

 下り列車が到着すると、通票を受け取る。家城・松阪間では、たとえば上り列車を待つことなく下り列車が2本続けて運転されることもある。その場合、一つしかないスタフでは対応できない。一区間には一つの通票しかないので、先行する列車に通券とよばれるものをまず持たせ、後続が通票を持つようにする。通券は通票がなければ開かない箱にしまっておくというように、厳重に管理される。なお、続行させない場合は通票をそのまま使えばよい。少々わかりにくいが、単線で列車を衝突させない前時代的な仕組みである。
通票を受け取って
出発進行    

 只見線が自動信号式になり、通票閉塞式の鉄道がだいぶ珍しくなった。この方式を採る限り、交換のために有人駅が必要となるので、設備投資か人件費節約かの選択が迫られることになる。列車本数が多くなれば自動信号機の設備投資するだろうし、乗客が減れば人件費負担が厳しくなる。いずれにせよ消えていく方式であることに間違いないが、鉄道愛好家にとっては実に興味深い単線鉄道の儀式なのである。
(2016/12/28乗車)

 

東海道線 もう一つの終着駅

大垣界隈

 鉄道ファンにとって大垣は聖地のひとつ。誰だって大垣夜行に一度は乗ったことがあるに違いない。それでも多くの人はドアが開いた瞬間にホームに飛び出し、乗り継ぎの西明石行きの席を取ろうと、一目散に階段を駆け上がるばかりで、大垣そのものを目的に旅した人は少ないに違いない。俳聖芭蕉が『奥の細道』で大垣を終着点としたあと、すぐに伊勢へ旅立ったように、旅の終わりは旅の始まりを地でいくような通過駅の一つなのだ。
 ところがどっこい、この駅に集まる鉄道にはなかなか趣深いものがある。国鉄旧樽見線から引き継がれた樽見鉄道、近鉄から分社化された養老鉄道という風に、過疎化の影響で廃線の憂き目にあいそうな、だからこそ味わい深い鉄道のターミナルになっている。
 東海道線を岐阜方面から大垣を目指すと、車窓右側には美しい伊吹山地の山々が次第に迫ってきて、揖斐川橋梁を渡る頃には景色が大きく開け、何連も連なる見事なトラス橋が見えてくる。樽見鉄道である。さすが旧国鉄路線だけのことはあり、堂々とした橋梁はとても廃線の危機にあるとは思えないほどだ。それもそのはず、この鉄橋は明治時代に造られた御殿場線で使われていたものを移築したものだそうだ。乗りたくなること請け合いである。
 もっとも今回の旅の目的はそこではない。もう一つの路線、といっても現在もJR東海に所属する路線がある。名前は…東海道線、通称「美濃赤坂線」という枝線である。乗り尽くしファンにとっては、ここはなかなか訪れ難く、東海道線完乗を果たせない原因となっている。漸くこの地を訪れる機会がやってきた。

 雪の多い関ヶ原に近いだけあって、早朝の大垣駅は底冷えがする。12月末の美濃地方は6時半近くになっても辺りは真っ暗だ。美濃赤坂線は駅の片隅にある切り欠き式の3番線から出発する。ホームを歩いていくと待合室の向こう側に、すでにJR東海の主力313系2両編成が停まっていた。1日20本に満たない閑散路線だが、優良鉄道会社だけに車両は立派だ。6時29分の始発電車には、地元の人とおそらく鉄道マニアの数名しか乗っていない。
 ワンマンカーの車内アナウンスが終わると電車は大垣駅を出発し、真っ暗闇の中を疾走する。広い車両区を突き抜けているはずだが、明るい車内の光に邪魔されて外がよく見えない。もう本線とは分岐したのだろうか。それにしても支線を走るのとは異なって揺れが少ないから、まだ本線なのだろうか、そんな筈はないのにと思ったところで、電車は徐行する。しばらくすると高速で貨物列車がすれ違っていった。走り出してすぐ、中間の荒尾駅に到着する。予想外に貨物列車が走るような支線だったのだと思った。場内直前にポイントがあり、単線となって荒尾駅に到着した。

石灰岩輸送で生き残った駅

 東の空が白んでいる。天気は良いようだ。こんな時間の下り電車からは、降りる人も乗ってくる人もいなかった。あと一駅。ここからは急に電車が揺れだした。支線ならではの、お馴染みの揺れだ。大垣を出てわずか6分で終点美濃赤坂に到着した。
古い駅舎に新しい312系電車

 夜明けは急速に訪れる。鉄道マニア達は、下車すると慌ただしく駅舎の写真撮影を終わらせて、再び車上の人となった。折り返し6時39分発大垣行き。わずか4分の滞在時間である。私は次の電車を待つ。木造の駅舎には改札もなく無人駅の筈なのだが、事務室には蛍光灯が灯っていて誰かいる気配だ。しかし誰も出ては来なかった。
 古くからある終着駅にはどこか哀愁が漂っている。このなんとも黄昏れた雰囲気が好きで、しばらくここにいたいと思うのである。駅舎をでて車止めのところまで歩いていき、折り返し電車を見送る。
停まっている貨物の向こうに 
屋根付きの貨物ホームが見える

 美濃赤坂駅は、巨大な廃墟のような、とても広い構内を持つ駅だった。何本もの、果たして使われているんだろうかと思わせるような引き込み線があり、貨物用と思われる建物付ホームや放置された貨物車がある。

 はたしてここはいったいどんなところなのか。駅舎の壁に石灰岩輸送の説明があり、ようやく納得がいった。資源小国日本にとって数少ない自給率100%を誇る石灰岩が、この先にある金生山で採れ、そこまで貨物専用の西濃鉄道の線路が続いているのだ。つまり美濃赤坂は、西濃鉄道とJR貨物の接点であり、線路はJR東海の管轄となっている。さらに駅はJR東海にとっては無人駅で、西濃鉄道が事務所として使っているという。これで無人駅に人がいる謎も氷解した。
東の外れに非電化の
西濃鉄道線が北に向
かって続いてる。 

 かつてはここから大垣夜行が出発・到着した時代もあったという。西濃鉄道も戦時中までは旅客扱いをしていたそうだ。しかし今は1日の乗降客が300人台のローカル駅となり、日に20本に満たない数の電車が大垣駅との間を往復するに過ぎない。

 7時01分発の2番電車が回送でやって来た。通勤通学で賑わう7時台には3本設定されている。いつの間にか通勤客が集まっていた。ドアが開き、全員クロスシートに収まり、大垣向けて出発する。
開扉を待つ通勤客

 電車はガタピシ揺れながら真っ直ぐなレールの上を走っていく。左にカーブし始めた途中に荒尾駅はあった。2両では持て余すような長いホームは、同じ曲率で綺麗に曲がっている。ここでも10人ほどの通勤客が乗ってきた。全員シートに座っても、まだ余裕は十分ある。立っているのは運転席後ろで車窓を楽しんでいる私だけだ。
 眩しく朝陽が降り注ぐ中を電車は複線線路に近づいて行った。その時初めてわかったことがある。荒尾駅は東海道本線のすぐ脇に設置されていたのだ。往路は真っ暗でわからなかったが、あのすれ違ったの貨物は、本線を行くコンテナ列車だった。こちらが徐行したのは、本線上りを通過する貨物列車を待つためであり、通過後に上り線路を横切って荒尾駅に進入したのだった。
 美濃赤坂線5.0㎞のうち、荒尾・美濃赤坂間はわずか1.6㎞に過ぎない。残り3.4㎞は東海道本線そのものだった。どうりで揺れも少なく爆走していたはずである。暗くて何もわからず、支線だと思い込んでいただけだった。それはともかく、これでようやく東海道線を乗り尽くした。
(2016/12/28乗車)